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試練に立たされる現代キリスト教

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

 今日のキリスト教は、聖書を解釈しようとする場合、その取り組む姿勢というものが、大きく見て、二つに分かれてしまっています。一つは信仰に忠実であろうとする立場のグループ、もう一つは事実関係に忠実であろうとする立場のグループです。

福音派とリベラル
 前者の、信仰に忠実であろうとする立場の人は、基本的に“霊感説”といって、「聖書は神の霊感を受けて書かれた書物であり、誤りのない真理である」という前提に立って聖書を解釈しようとします。

 ところが後者の事実関係に忠実であろうとする立場の人は、信仰の対象として聖書に取り組むというよりも、どちらかといえば学問の対象として聖書を研究し、「聖書がどのような過程を通してでき上がったのか? 著者はだれか? 著作年代、場所、および記述内容は正しいと言えるのか?」といったことについて、理性的なメスを入れて検証しようと取り組んでいます。

 このような聖書に対する取り組み方の立場の違いから、現代キリスト教には、いわゆる「福音派」と呼ばれるグループ、片や「リベラル」と呼ばれるグループとの二つが存在しています。

 福音派の人たちは、聖書をその通りに受け止める傾向性をもっています。彼らは、聖書を具体的に書いたのは人間であっても、その人は神の霊感を受けながら書いたのだから「本当の著者は神である」と考えています。中でも根本主義者(ファンダメンタル)と呼ばれる人たちは、聖書は真理の書であり、そこには寸分の誤りもないと主張します。この立場が徹底化されると、天地創造の6日間、エデンの園の物語など、全てが事実であると考えます。

 ところが、18世紀中葉から19世紀にかけて起こってきた聖書批評学、すなわち聖書に理性のメスを加えて批判的に検証しようとする学問の登場によって、従来あった霊感説の考え方が、厳しいまでの攻撃にさらされるようになりました。この聖書批評学の先駆者的な人物がフランスのアストリュク(16841766)です。

 彼は、創世記の1章と2章に二つの違った順序で書かれた天地創造物語があることに気づき、しかも1章では神の名を「エロヒーム」と呼び、2章では「ヤハウェ」と呼んでいる違いまであったことから、創世記は2種類の異なった主要伝承(資料)を合成することによってでき上がった書ではないかと主張するようになりました。(ちなみに日本語ではエロヒームを「神」、ヤハウェを「主」と表記します)

 この聖書批評学者たちのいう、聖書が異なった幾つかの伝承(資料)の合成によって徐々にでき上がってきたことをうかがわせる、その根拠(証拠)となる箇所は、聖書の各文書の至るところに、数えきれないほど見受けられます。やがて、この聖書批評学の研究を確立させたドイツのヴェルハウゼン(18441918)が活躍した19世紀後半には、モーセ五書(創世記から申命記までの五つの書)の史実性は否定されるようになり、創世記は神話か伝説に過ぎないとまで主張するようになっていました。これがいわゆる発達説と呼ばれる学説です。

 しかしその後、パレスチナやメソポタミア地方の発掘調査における相次ぐ考古学的な発見によって、聖書(モーセ五書)の記述には、そのもととなる何らかの歴史的根拠(史実性)があることが分かってくるにつれ、ヴェルハウゼンらの行き過ぎた考え方は、少しずつ軌道修正されるようになりました。

信仰にジレンマ
 けれども、実際の歴史と、特に創世記の歴史とが食い違っている――本当に人類歴史は6000年か? という疑問――、あるいは聖書の記述そのものに矛盾があったり、また自然界の事実と食い違っていたり、及び聖書には、現代宇宙論などの諸学問と相いれない内容も多くあるために、従来あった霊感説の立場を素直に受け止めきれない聖書学者が多くいるのです。

 事実、聖書の各文書には、書かれた時代背景の異なると思われる資料が随所に含まれていることを否定できないし、またモーセ五書のみならず、ヨシュア記と士師記を比較した場合、および列王紀と歴代志を比較した場合にも、そこには大小さまざまな歴史叙述の食い違いが存在するなど、霊感説では解決できない問題がいまだ残されているのです。

 やはり聖書はどう考えても、時代背景の異なる幾つかの資料が組み合わされて、徐々に編纂(へんさん)され、現在の形になったと主張せざるを得ないのです。

 以上のように、今日のキリスト教には、「福音派」と「リベラル」という大きく二分された立場の違いがあって、聖書解釈においても統一的な見解がなかなか出せないという問題を引き起こしています。

 ですから、創世記を読むとき、かつての霊感説の立場に立って、聖書一字一句を素直に信じ切れないというクリスチャンが増えていますし、かといって批評学的な指導によって、信徒の信仰のレベルアップを望むこともできないという、ジレンマを抱えています。そうやって信仰が徐々に衰退する現象が、キリスト教内部で起こってきているのです。

 次回は、このキリスト教の抱えている難問を、「統一原理」がどうクリアしているのかということについて述べたいと思います。

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 次回は、「創世記は神様の“編纂”」をお届けします。