2022.04.17 22:00
「新約聖書」と「旧約聖書」との関係性
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
2000年前、ユダヤ教社会の中で、イエス様は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」との宣布をもって登場し、メシヤとして、さまざまな奇蹟を行い、また福音のみ言を語られました。けれどもイエス様は、最終的に“偽メシヤ”として排斥され、殺害されてしまったのです。
イエス様の死、キリスト教とユダヤ教のとらえ方は違う
イエス様の活動舞台となったユダヤ教とは、どういう宗教なのでしょうか。それを簡単に言うならば、神から与えられた律法を“いかに守り行うか”ということを中心としながら信仰生活を行ってきた宗教であるということです。神から与えられた“律法のみ言”に忠実であろうとするユダヤ教徒から見れば、安息日を守らない(ヨハネによる福音書9章16節)など、律法に反するような言動の目立ったイエス様の運動は、異端として排斥せざるを得ないものだったのです。
その点について『原理講論』は、「イエスは預言者たちによってもたらされた旧約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的を持って来られたかたであったので、彼は旧約のみ言だけ繰り返して論じるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言を与えてくださったのであった。
ところが、祭司長と律法学者たちは、イエスのみ言を旧約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果までに至ったのである」(600ページ)としています。
ところが、キリスト教の伝統的な考え方によると「イエス様は何も“新しいみ言”をもたらされたわけではなく、むしろ旧約の教えの伝統に立ち、十字架の預言を忠実に成就するために来られたのであった」というのです。
したがって「『統一原理』の主張は間違いであって、当時のユダヤ教指導者が、旧約聖書に書かれた神の戒めや言葉にとらわれていたためイエス様を受け入れることができなかったのではなく、タルムードという自分たちで勝手に決めた“言い伝え”の方にとらわれたため、つまずいたのであって、ユダヤ教が旧約聖書に忠実だったからイエス様が分からなかったのではなく、反対に不忠実だったからつまずいた、だから彼らがもっとまじめに旧約を読んでいれば、イエス様の言われることが分かったはずだ」というのです。果たしてそうでしょうか?
実は、以上のような言い分は、あくまでもクリスチャン側の言い分に過ぎないもので、ユダヤ教徒たちはそのようには考えていないということを、私たちはまずしっかり確認しておく必要があります。
旧約聖書はもともとユダヤ教の正典だったのであり、しかも彼らはクリスチャンの主張する“十字架贖罪”という聖書解釈の尺度をもって旧約聖書を読んでいたわけではないのです。ユダヤ教は伝統的に“契約と律法”という観点から旧約聖書を理解しており、「モーセの律法をいかに守り行うか」というところに信仰生活の中心テーマがあったのです。
「キリスト教の聖書解釈は間違い」というユダヤ教側の言い分
したがって熱心なユダヤ教徒であればあるほど、彼らが初代教会のクリスチャンたちの主張する“十字架贖罪”の尺度から行う聖書解釈を聞いて、真っ先に抱いてしまう思いとは、「キリスト教の聖書解釈は間違いである」という批判的なものであったことを、私たちは十分に心得ておく必要があります。
事実、旧約聖書から新約聖書へと引用された聖句は、ユダヤ教側からみれば「あまりにもいいかげんな聖書の引用、ねじ曲げ…」としか思えなかったという現実がありますし、彼らにとっては2000年たった今なお、イエス様はメシヤではありえず、また新約聖書は異端の書として排斥せざるを得ないものです。
まさしくイエス様は“新しい真理”をもって登場して来られたお方であり、それは新約聖書自体が証言していることです。「人々はみな驚きのあまり、互いに論じて言った、『これは、いったい何事か。権威ある新しい教えだ…』」(マルコによる福音書1章27節)、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34節)
結局、ユダヤ教とキリスト教は、同じ旧約聖書を正典としていながら、それぞれの宗教における聖書解釈――ユダヤ教は“律法の行い”による義、キリスト教は“十字架信仰”による義――が異なっているため、互いに教義論争の火花を散らし、歴史的にしのぎを削っているのです。どうキリスト教側が弁明したとしても、やはりイエス様は新しい真理をもって登場された方なのでした。
ただ間違ってならないことは、「この教義論争は、どちらの聖書解釈が正しいか」という二者択一を迫るべき性質のものではなく、あくまでも救済摂理における旧約レベルか、新約レベルか、という時代的背景の違いをもって現れている現象に過ぎないのであって、どちらの聖書解釈も十分に成り立ち得るということを知らなければなりません。
同様に、『原理講論』の聖書解釈は、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生を通して与えられた新しい真理である「統一原理」の“復帰”という尺度から、新たに解釈し直されたものであり、その聖書解釈は成約レベルという時代的背景をもって現れたものとして、十分に成り立ち得る聖書解釈なのです。
ゆえに、アウグスティヌスが「旧約の中に新約は隠され、新約の中に旧約は完全に現れている」と言ったように、私たち統一教会においても「旧・新約聖書の中に統一原理は隠され、統一原理の中に旧・新約聖書は完全に現れている」ということが同じように主張できるという点を、まず理解しておかなければならないと思います。
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次回は、「試練に立たされる現代キリスト教」をお届けします。