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偶像崇拝に疑問

(光言社『FAX-NEWS』通巻741号[2002年8月10日・15日合併号]「四大聖人物語」より)

 『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

▲天使ジブリールから啓示を受けるムハンマド(ウィキペディアより)

 マホメット(ムハンマド)が生まれた6世紀、シリアからアラビア半島を横断する貿易路が発達し、メッカなどのアラビア商人が活躍し、たいへんなにぎわいをみせていました。しかし、商業が盛んになるにつれ、部族ごとのまとまりが崩れていきます。個人の利益ばかりを考える風潮が強くなり、部族同士の争いが頻繁に起こるようになりました。彼らの間にどんなに血なまぐさい争いや略奪が行われても、それを取り締まるだけの強力な政府も法律もなかったのです。

全アラビア人がカーバ神殿を崇拝

 ところが一つだけ、メッカの中央にある「カーバ神殿」だけは、部族の違いに関係なく、すべてのアラビア人から崇拝されていました。

 アラビア人はメッカを神聖な都とします。貿易が盛んになるにつれて、ユダヤ教徒やキリスト教徒が次第にメッカに入り込んでくるようになり、アラビア人の間にもこうした宗教に影響を受ける者が少しずつ現れてきました。

 そのような時代背景のなか、マホメットは紀元570年頃、神殿の管理者の家、イシマエルの子孫であるクライシ族のハーシム家に生まれました。母アーミナはマホメットを身ごもったとき、「おまえの生まんとする子はアラブ民族の預言者にして立法者である。人々の憎しみとそねみを警戒せよ。神に庇護を求めよ」という啓示を受けたといいます。

 父アブドゥッラーはシリアから帰る途中、砂ばくで倒れ、母も彼が6歳のときに亡くなり、祖父ムッタリブに育てられましたが、8歳のときに死に別れてしまったので、マホメットは亡父の弟アブー・ターリブの家に引き取られました。

 家を大切にする遊牧民の習慣が色濃く残っていた当時のアラビア社会で、家族という後ろ盾がないのはとても不利なことでした。ターリブが人格者だったため、マホメットは恵まれていましたが、それでもつらい少年時代を過ごしたといわれています。おじはマホメットを実の子のようにかわいがってくれましたが、大家族を抱えて貧しく、マホメットは小さいうちから、ラクダや羊の番人をしたり、馬を飼いならしたりして、朝から晩まで働かなければなりませんでした。

 そのような苦難の環境にもめげず、彼は気だてがやさしく「アーミン(誠実)」というあだ名がつくほど、健やかに成長します。12歳のときには、人前のラクダの御者(ぎょしゃ)になり、おじに連れられてシリアやイエメン、エジプト、アビシニア、ペルシャなどを、隊商の一員となって転々と旅を続けました。

既存の信仰に不信感、瞑想のため山へ

 一本の草木もない砂漠では、人々は毎日が自然との闘いであり、自分の生命を守るために強盗や殺人も辞さない生活でした。マホメットは、人間同士を争わせる砂漠の恐ろしさを身にしみて感じました。彼は旅先で、ユダヤ教徒やキリスト教徒に出会い、さまざまなことを学び、彼らは「ただ一人」の神に祈っていることを知りました。

 25歳のとき、ハディージャという裕福な未亡人に雇われて隊商の指揮者となり、隊商の仕事に手腕があり、誠実で勇敢で情け深かった彼は、ハデージャにすっかり気に入られ、彼女と結婚します。このときハデージャは40歳、理想的な妻で、三男四女に恵まれ(男児はまもなく全員死亡)て2人は幸せな結婚生活を送ります。貧乏の苦しみをいやというほど味わってきた彼は、自分が裕福になるとすぐに、救済組合をつくって、貧しい人や身寄りのない人たちを親切に世話してあげます。

 当時のアラビア人は、たくさんの部族に分かれており、部族間の争いがたえませんでした。そして、部族ごとに木や石でできた蛇や山羊の姿をした偶像を神として拝んでいたのです。その大半が、メッカのカーバ神殿に祭られていたので、神殿の回りは、お参りする人でいつもごったがえしていました。

 「像が神だろうか。木や石ころが、人間を救ってくれるのだろうか」

 マホメットのそれまでの信仰に対する疑問は深まるばかりです。しばしば岩山を歩きまわり、瞑想(めいそう)のために山にこもるようになりました。彼の人生の新しい局面の始まりです。

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 次回は、「宣教開始、迫る迫害」をお届けします。