2022.04.25 12:00
教えは日本人の心にも影響
『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
紀元前484年、さまざまな変化を乗り越えてきた孔子は、魯(ろ)国の主君・哀公から迎えられて、14年ぶりに故郷の土を踏みました。政治顧問や元老に任命されましたが、このとき既に70歳近くになっていた孔子は、政治生活をあまり重要に思わなくなり、不滅の事業は礼を確立することであるという考えに至っていました。
これが孔子の晩年の主な活動内容となったのです。未来に希望を求めて、もっぱら教育に力を注いだのでした。
教育方法は門人たちとの対話でした。対話を通して門人たちの性格を見極め、その人格が育つようにし向けました。彼が教えようとしたのは倫理観で、政治もこの倫理観を実践することだったのです。
孔子は政治的情熱を抱いてはいましたが、功名と富貴には無関心で、政治家としてより、教育者として輝かしい成果を挙げました。弟子のほとんどは下級貴族や一般庶民で占められていました。
そのなかで、孔子の自慢でもあり、かわいがったのが、顔回(顔淵)でした。彼は、孔子より30歳も年下でしたが、非常に聡明(そうめい)で貧しい暮らしのなかでも、つねに勉強を怠らず、謙虚で向上心にあふれていました。その顔回は孔子の教え「仁」についてこう書き残しています。
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」
自分が他人からどのように取り扱われたら愉快であるかという経験や感情を、他人に移入して、そのように他人を取り扱うことによって仁が達せられるという意味です。
また、顔回は孔子をこう賛嘆したことがあります。
「仰ぎ見るとますます高く、なかに入るとますます広くなる。先生は一歩一歩よく導いてくれた。私の視野を広くさせ、もっとも肝心なものを教えてくれ、そして少しも足を止めさせないようにさせる。自分の才能を出しきってやっと追いつこうとすると、師はまた高みに立っておられ、いつまでも追いつくことができない」
この顔回が41歳の若さで清貧のなかで死んだとき、孔子は「ああ、天が私を滅ぼそうとしている」と慟哭(どうこく)したといいます。孔子は、2年ほど前に息子を亡くしていましたが、自分の後継者と心に決めていた顔回の死は、71歳の孔子に、息子の死以上に大きな打撃を与えたのです。
さらに、翌年には、献身的に仕えてきたまな弟子の子路が、隣国・衛の政変に巻き込まれて壮絶な死を遂げました。孔子は、子路の素朴で果断で勇気に富んだ人柄を愛し、子路のほうも、孔子のためには命も投げ出すほどほれ込んだ師でした。
苦楽を分かち合い、生死をともにしてきた古参の弟子たちも、あるいは死に、あるいは仕官し、孔子の身辺からいなくなりました。孔子は衰弱し、とうとう病に伏せるようになりました。
「泰山が倒れようとする、柱が折れようとする、哲人は草のように枯れ腐ろうとする」。これは孔子が歌った最後の歌で、弟子たちは孔子の病気が重くなったことを感じました。
紀元前479年4月、弟子たちの悲しみのなか、息を引き取ったのです。門人がみとるなかで死にたいと言っていた孔子の、願い通りの最期でした。
孔子の遺体は魯の城の北、泗水(しすい)のほとりに葬られ、その遺徳を慕う弟子や魯の人々が、墓の傍らに小屋を建て、そこで3年間墓守りをして暮らしました。3年後別れる間際になって、皆はまた涙を流し、弟子の子貢は離れることに耐え切れなくて、さらに3年間を過ごしたそうです。
魯の哀公は、曲阜にある孔子の旧宅に廟を建て、孔子を祀りました。いわゆる孔子廟の始まりです。
弟子たちは喪に服している間に、互いに孔子の教えについて語り合い、それを書き記して一冊の本を編みました。それが「論語」であり、この本が中心となって孔子の教えは次第に中国全土に行き渡っていきました。
孔子の教えは「儒教」といわれます。「儒」とは、“広く昔の聖人の道を学んで自分を潤す”という意味です。12世紀になって、中国はもちろん、李氏朝鮮や徳川時代の日本にも絶大な影響を及ぼしました。「論語」を教科書にして儒教を寺小屋で教えるなど、日本人の心の拠りどころにもなりました。現代中国では、1980年代に入って孔子が再評価されるようになり、現政府のもと、儒教に対する人々の関心が高まっています。孔子の経典は、人間の生きる方法として2千5百年後の今日でも中国人や日本人の心の中に生き続け、尊重されています。
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次回は、「〈マホメット編〉偶像崇拝に疑問」をお届けします。