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徳をもって政治を行う

(光言社『FAX-NEWS』通巻728号[2002年6月10日号]「四大聖人物語」より)

 『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

▲孔子(ウィキペディアより)

 36歳のとき、祖国、魯(ろ)国の政治の実権が3人の家老に乗っ取られ、主君昭公が隣りの斉国に亡命すると、義憤を感じた孔子は跡を追うようにして斉に行きました。礼を厳粛なものとしていた孔子にとって、礼が無視され続けている国内秩序の乱れは我慢できないことだったのです。

豊かな感受性も併せ持つ

 斉に滞在中、孔子は大いに見聞を広めました。古代の宮廷音楽を聞いて感激し、3か月間、食事の味もわからなくなるほど熱中したことがあります。孔子は強い道徳心を持つと同時に、美しいものに引きつけられる豊かな感受性も併せ持っていたのです。彼はどんな楽器でも巧みにこなし、自ら作曲もしました。音楽は詩や礼と深いつながりがあり、人の心を薫育(くんいく)することができると考え、その普及にも力を尽くしました。

 自分の学問に確信を得て惑うことのなくなった孔子は、故郷の魯で私塾を創設して弟子の養成に務めます。入門を希望する人は誰でも受け入れ、当時、貴族占有の教養であった詩、書、礼、楽などの古典を教えました。

 孔子は「古の君子」というものに非常に強い憧れを抱いていました。「君子」とは、理想的な人格者、政治家を意味する言葉であり、孔子はそのモデルを、昔の偉大な聖王たちのなかに求めました。特に、古代中国の周の輝かしい文化を築きあげた周公を最も尊敬し、しばしば夢にまで見るほどだったといいます。この周公の定めた制度と文化を好み、学び取ろうとしたのです。

 孔子の学問や修養の目標は、「君子」を養成することであり、人間にとって一番大切なものは「仁」であると考えました。

 「仁」とは、人を愛すること、私欲を捨てて常に中正であること、真心を尽くして人を思いやること、などの意味ですが、孔子自身も、自分の「仁」を実現するために、中都の行政長官として、その政治的手腕を発揮します。「五十にして天命を知る」の言葉どおり、このとき孔子は51歳、実質的に国政に参与するほどになりました。

 「徳をもって民を治める」と説いた孔子はすぐれた政治能力を発揮し、司空(土木を掌る官)や司寇(刑罰や警察を掌る官)へと昇進していきます。このころ、交戦状態にあった斉と、夾谷(きょうこく)という所で和睦の会合を開くことになりましたが、会合に出席する魯の君主定公の介添役に孔子が抜てきされたのです。

 それだけ孔子の才能が高く評価されていたわけです。

弟子を連れ諸国を歴訪

 このとき、斉には魯を服従させようとの魂胆があり、会合の席上、武力で定公を威嚇(いかく)しようとしました。これに対して孔子は機敏に対処し、魯は会合を有利に進めることができました。

 この功績により、孔子は大司寇(だいしこう〈裁判官としての最高位〉)に昇りました。大きな声望を得た孔子は、国内政治の改革に着手します。孔子の目指したものは、3人の家老の勢力を弱め、国内秩序を君主を頂点とする体制に立て直すことでしたが、改革運動は途中で失敗し、孔子は国外に立ち去らざるを得なくなりました。

 紀元前497年、55歳で政界を去り、弟子を連れて14年に及ぶ旅に出ます。弟子と荷車の長い列は、著名な学者が弟子を引き連れ、遊説に旅立つといった風情でした。祖国を離れなければならない孔子でしたが、天も人も恨むことなく、使命感に燃える姿は清々しささえ感じさせます。斉国と魯国で実現できなかった、徳に基づく秩序を樹立するという夢を、再び求めようとしたのです。

 しかし、衛、鄭(てい)、宋、陳、楚、晋などの諸国をめぐり歩き、君主、名士を歴訪しましたが、どこへ行っても、孔子は政治の相談を受けるだけで、実務に当たらせてもらえません。なぜなら、孔子はあまりにも優れていて、優秀な弟子もたくさんいたので、たいていの君主は、もしも孔子に政治の実権を握らせたら、しまいには、彼に自分の国をとられてしまうのではないか、と心配したからです。

 また、中には、孔子の言うことは確かに立派だが、理想が高すぎて実際の政治には適さない、と思う人もいました。

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 次回は、「教えは日本人の心にも影響」をお届けします。