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正しい道説く者すべてに学ぶ

(光言社『FAX-NEWS』通巻722号[2002年5月10日号]「四大聖人物語」より)

 『FAX-NEWS』で連載した「四大聖人物語」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

▲孔子(ウィキペディアより)

 「子のたまわく、学んでときにこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり遠方より来る、また楽しからずや。人知らずしてうらやまず、また君子ならずや」

 これは、『論語』の巻頭の言葉です。子とは孔子のことで、孔子の言行がその死後、『論語』としてまとめられ、後世に大きな影響を与えました。『論語』ほど読む人の心に残り、長く読み続けられた本はありません。

父親の死後貧困にあえぐ

 最初に挙げた言葉のように、それぞれの文章は短く断片的でさえあります。しかし、『論語』は、短いにしては味わいのある文章で、大変簡潔であるにもかかわらず、複雑な奥深い意味を持っています。

 語った孔子の徳と、その影響を受け孔子の言葉を後世に伝えた弟子たちの人格を表しているのでしょう。

 儒学の開祖、孔子は、今から約2500年前、紀元前551年、中国東部にあった魯(ろ)の国に生まれました。この時代は、いわゆる春秋戦国時代の末期で、黄河の流域を統治していた周王朝は既に衰退し、各地の諸侯がその覇権をめぐって抗争を繰り返していました。

 父、叔梁紇(しゅく・りょうこつ)は貴族階級に属していましたが、中で最も低い身分でした。武功を残し、戦史に名をとどめるほどの武勇の人でしたが、孔子の生後間もないころ(一説によると3歳のとき)に亡くなります。

 母は顔徴在(がん・ちょうざい)、そのとき20歳になったばかりでした。歴史家は叔梁紇と顔徴在は正規の夫婦ではなかったとしています。孔子の生い立ちは決して恵まれたものではなかったのです。

 父の死後、孔子は女手一つで育てられました。父親の死を境として家は貧しくなっていき、貧困にあえいだようです。中国史に残る歴史家、司馬遷が著した『史記』によれば、孔子は身長が2メートル以上と、当時まれに見る長身であり、肉体的に恵まれた武人の子ではありましたが、戦いで戦車を御したり、弓矢を用いたりすることは好まず、論語に「吾(われ)十有五にして学に志す」とあるように貧しい生活の中でも年少期に学問を志したのでした。

 では、なぜ、武人の子が武術ではなく学問を好んだのでしょうか。それは父親の武功の内容に解くカギがあります。父、叔の武功は、閉じこめられた城から同僚を救出するとか、包囲された城から君主を守って援軍の元に送り届けてまた城に引き返すといった、冷静さや責任感、思慮深さが根底にあってできることでした。この父の血が、孔子の道徳心、良心、そして、求道の生活に彼を誘ったに違いありません。

悪に対して激しい怒り

 孔子は、貧しい環境のなか、非常に苦労しながらも勉学に励み、土地の学校で教育を受けます。昔から中国に伝わる『書経』や『詩経』などをむさぼるように読み、教養を磨き、博識の老師について、各種の礼儀作法を身につけます。孔子は謙虚で温厚円満な人物でしたから、誰に対してもへりくだって教えを受けました。身分のない楽師、当時の人々が野蛮人と嫌った地域の人々でも、正しい道を説く者は師として教えを求めたといわれます。それにより、楽曲の演奏・歌唱にも長け、学問も技術もある有能な若者へと成長していきました。

 19歳で結婚。翌年、長男が誕生します。20歳のころ、下級役人として魯の国に仕えます。彼の職は、農民が税として納める穀物を調べて倉庫に入れる役で、次が牧場を管理する役人。本人自身が「若いときは低い身分であった。だから何でもいろいろできるのだ」と述懐しています。どんな職に就いても、誠意をもって励み、「学問の道をひたすらに歩みたい」という望みを捨てなかったことが、孔子の人間性を豊かなものにするのに役立ったのでしょう。

 24歳のときに母を失いますが、その悲しみを乗り越えて必死の努力を続け、やがて「三十にして立つ」と自ら言えるだけの実力を蓄え、一人前の学者として独り立ちします。

 孔子は人々に尊敬されていながらも、依然としてよく学ぶ精神を持ち続け、立派な徳の高い人物がいれば、誠実にそれを学ぼうとしました。また、平和を愛する人でしたが、悪に対しては激しい怒りを持っていました。

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 次回は、「徳をもって政治を行う」をお届けします。