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続・日本統一運動史 11
高松/広島

 真の父母様が「母の国」である日本に向けて語られたみ言や、教会員たちの涙の証しなど、「続・日本統一運動史」では、1965年以降の「知らなかった」エピソードをお届けします!
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歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第四章 真の御父母様との一体化時代
一、真の御父様、21年ぶりの御来日(1965. 1. 282. 12

(10)高松(1965. 2. 34
 2月3日午後10時、御一行は高松教会に御到着。到着後、ただちに御言(みことば)を語られました。「過去の人のできなかった、より以上の蕩減を克服してこそ勝利することができる」。地方における者に対する伝道の心構え等について、約2時間にわたってお話しされました。4日の午前1時に、御一行は『月光』という旅館に向かわれました。

 4日、朝食をとられながら真の御父様を囲んでの和動会、質問会が始まりました。その後、揮毫(きごう)していただき、それから屋島山に向かい、瀬戸内海を一望することができる屋島山頂の雑木林の一角に聖地が定められました。次いで車は香川県庁へ向かい、3時半発のフェリーで広島に向かわれました。

◇石井トミ子さんの証し
 「聖地が決定されたとき、西川先生は御父様を景色の良い所に案内しようとされました。そのとき、御父様は非常に怒られたのです。『先生は景色を見に来たと思うのか』。その言葉を聞いて、先生は命懸けで聖地を決定するために来られたことがわかったのです。」(『ファミリー』199710月号)

1. 御言(1965. 2. 32. 4

2. 揮毫
「天恵仰慕する高松の鶴
勇飛天高統一勇士に似る」

3. 高松の聖地決定
(1965. 2. 4 屋島公園内)


11)広島(1965. 2. 45

▲広島教会にて(1965. 2. 5

 「24日午後8時ごろ特急『しおじ』で広島にお着きになった。市内の中心部を通って教会に着かれ、『勝利の歌』の合唱の中を部屋に上られ…お話が始まった。

 『30億人類は歴史的心情、イエスの内的心情、十字架の内外共の情を全体的に知って心情的蕩減の基準を地上に決定させ、神を慰め、あなたを見てすべての苦労を忘れ、あなたがあるから新しい希望、新しい勇気を持つことができるところまで行かなくてはならない』。その日は午前3時にお休みになった。5日、朝食の後、昨晩のように質問および和動会が行われた。220分御出発。広島城跡(大本営跡)に聖地決定される。…その後県庁の前へ、そして駅へ。午後322分発『みどり』で福岡へ。別れがたい大先生は車中の人となられ、窓ガラスに『しっかり』とお書きになられた。」(『成約新聞』特集号、1965. 3. 15付より)

1. 御言(1965. 2. 42.5

2. 揮毫
「福地建設之地日本之廣島也」
「聖戦萬勝之廣島」
「香花盛園之地」

3. 広島の聖地決定
(1965. 2. 5、広島城跡内)


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◆日本を愛した文先生の足跡 11
天恵仰慕する高松の鶴

◆日本を愛した文先生の足跡 4
「聖戦萬勝之廣島」

(Blessed Lifeバックナンバーより)

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 次回は、「福岡」をお届けします。

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