2022.04.28 22:00
新 堕落性の構造 25
現代人に不幸を招来する「心のゆがみ」。そんな悩みの尽きないテーマをズバッと解説! 人間堕落の根源からその原因を究明している一冊です。毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
阿部 正寿・著
8 自己中心からくる優柔不断
◉受け身では決断できない
決断の構造をさらに詳しく述べれば、主体に立って目標を定め、その目標に到達するため、あるものを捨て、目標に関係あるもののみを得ていくことだということができましょう。
優柔不断な人、迷いやすい人というのは、この捨てるということが思い切ってできない人です。いろんな人とつきあって、結婚相手が決まったトタンに、前のA子さんのほうが良かったのではないかとか、B子さんも良かったと、急に未練がわいてきて迷ったりするのです。また、何か新しいことを始めようとするとき、友人が来て、「それはやめたほうがよい、君のためを思うからだよ」などと言われると、その気になって方針を変える人もいます。
新しいことを始める場合、ある犠牲が必要です。それが捨てるということです。優柔不断な人は、あれもこれも惜しく、捨てられずに未練を残しているから、決断し前進できないのです。否、前進させられないのです。「二兎(と)を追う者は一兎をも得ず」の諺(ことわざ)どおりです。
聖書にあるとおり、「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。……あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6・25、32、33)と、イエス・キリストの言われるごとく、「どうしよう、ああしよう」と思い煩い迷うということは、小さな自分の身のことばかり心配するからです。
それよりも、神の国と神の義という最大最高の目的のためにすべてをささげれば、すべてを御存じであられる神は、必要なものは与えてくださるのです。
なぜなら、すべてをつくり給うたのは神であり、すべてを所有しているのも神だからです。捨てた以上のものを与えるのが神です。そのことが信じられないから、不安で捨てられないのです。
だから、迷うのは自己中心に考えるからです。神を中心(全体中心)に考えれば、自分の捨てたものもその圏内にあるはずですから、消えたのではなく、やがて自分のもとに帰ってくるのです。
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次回は、「信仰あらば山をも移さん」をお届けします。