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新 堕落性の構造 24

 現代人に不幸を招来する「心のゆがみ」。そんな悩みの尽きないテーマをズバッと解説! 人間堕落の根源からその原因を究明している一冊です。毎週木曜日配信(予定)でお届けします。

阿部 正寿・著

(光言社・刊『こう解ける! 人生問題~新 堕落性の構造』より)

8 自己中心からくる優柔不断

日本人の多くはハムレット型
 シェークスピアのハムレットは、「あるべきか、あらざるべきか」と常に迷う、悩み多き青年でした。こういうタイプの人間をハムレット型といいますが、それと対比されるのが、セルバンテスのドン・キホーテです。ドン・キホーテは風車を怪物と勘違いしてロバに乗って槍を構えて突撃した風狂の男ですが、こういうのをドン・キホーテ型といいます。さて、人生とは哲学者キェルケゴールのいう、「あれか、これか」の実存的二者択一の状況にあります。就職か進学かというような問題から、結婚相手はどちらがいいかとか、今月はクーラーを買うか、カラーテレビにしようかというようなことに至るまで、決断を常に迫られています。

 このような状況に迫られた時の日本人の反応は、極めてウエットだといえます。金色夜叉のお宮ではないが、寛一に思いを寄せながらもダイヤモンドの富山氏のほうに行ってしまうという二心を抱いて悩むのです。日本の文学は大体このような共通した要素をもっています。テレビのメロドラマなどもほとんどこの類(たぐい)で、御婦人方の涙を頂戴しているようです。私などは、本人がもっとはっきりしさえすれば、そんな悲劇にならなくて済むのに、と思うのですが、それではドラマにならないので味気ないことなのでしょう。日本人は、平安の昔からこういう状況のもとで悩んできました。

 平重盛は、父清盛と上皇との板挟みに合って、「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」と嘆きました。日本の情ここに極まれりという感です。かくのごとく、日本人は「あちらを立てればこちらが立たず、両方立てれば身が立たず」という優柔不断に追い込まれやすい民族性をもっているといえるでしょう。その意味では、極めてハムレット型の人間が多いということができましょう。

 優柔不断とは、言い換えれば決断力がないということです。あれこれ迷って方向が定まらないことです。小さなことを決めるのにグズグズ時間のかかる人がいます。食堂で食事一つするにも、カレーライスにするか、ウドンにするか迷います。あるいは一度決まったことを覆して、猫の目のようにクルクル考えが変わる人もいます。こういう人は、人の意見に動かされやすい人です。

 デパートで洋服を買って帰って、隣の奥さんに「それは少し高いわよ、あそこの店にもっと安くていいのがあるのに」などと言われると、急に惜しくなって心騒ぐのです。こんなことぐらいだったらまだいいのですが、国家的指導者で、何か発言して、それがマスコミにたたかれるとすぐそれを引っ込めたり謝ったりする人がいます。いやしくもそういう立場の人が言った以上、何か信念に基づいてしゃべったはずであり、それを少しばかり騒がれたといって、すぐ変えるような人間は信頼できません。

 決断するためには、まず自分が主体の立場に立たなければなりません。次に目的を定めて、それと一致することが必要です。ゆえに、決断力のない人間とは主体性のない人だということになります。PTAの会合に行くかどうかも、隣の奥さんが行くのなら自分も行くというのでは、自分は主体になっていませんから相手の意見が決まるまで自分も決めることができないのです。自分で決定できないということは、同時に責任ももたないということなのです。

 これらは堕落性のうち、主管性を転倒した罪に該当するものです。自分が環境に支配されるのではなく、自分が主体的に環境を主管すべきであるという神が与えた本来の立場をサタンに奪われた罪の結果なのです。だから決断できない人間は新しい環境を神から与えられないのです。そういう人間は新しい世界に常に不安を抱いていますから、前進できずに古い自分の世界に安住して、発展がありません。それは、神を信じるということがないため、新しい未来を確信する勇気がないのです。

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 次回は、「受け身では決断できない」をお届けします。


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