2022.04.15 12:00
続・日本統一運動史 9
夜の御言/名古屋
真の父母様が「母の国」である日本に向けて語られたみ言や、教会員たちの涙の証しなど、「続・日本統一運動史」では、1965年以降の「知らなかった」エピソードをお届けします!
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歴史編纂委員会・編著
第四章 真の御父母様との一体化時代
一、真の御父様、21年ぶりの御来日(1965. 1. 28〜2. 12)
(7)夜の御言(1965. 1. 31)
1965年1月31日の夜、礼拝堂で教会員の質問に答え、午前1時半近くまで御言を語られました。
(8)名古屋(1965. 2. 1〜2)
「1日午後1時、特急ひかり号で東京を出発し、午後3時30分、名古屋駅に到着された大先生御一行(真の御父様、崔元福先生、崔奉春先生、久保木修己会長、阿部トミ子さん)は、地区長以下、数十名の歓迎陣に迎えられて、車で名古屋城、テレビ塔等を御見学になり、4時半頃、教会へお着きになった。歓迎会の席上で大先生は…『十字架を背負う神の子女として、最後の勝利をするように』との励ましの祈祷をされ、その後約3時間半にわたって、お話しされた。
日本で、二番目に足を踏み入れられた地、名古屋について、大先生は『東京は東の都、つまり神の創造の始めの国、エデンの都を指しているが、名古屋は一番古い家、つまり天宙における最も古い名高い家。それはアダムの家を象徴しており、古い故郷を思い出させる』と語られた。…『祈りでもって名古屋200万市民よ、神の懐へ帰れ!』と、部屋中に鳴り響く大声で、集う者たちのすべての心情を一点にかき集められた。お話の後には、聖歌『新エデンの歌』を、自ら力強くリードされ、心身ともに満たされた楽しいひとときを過ごされた。…
夕食後、再び和動の時間を持たれて、高校生たちの熱心な質問に答えられ、大先生のこれから歩まれんとする世界路程の意義等について語られた。時間のたつのも忘れ、お休みになられたのは、明くる朝の4時近くであった。
明くる2日は陰暦の1月1日午前5時に…敬礼の儀式を行った。聖地はその朝、東山の高台に決定され、聖別式を行い、帰宅後正午近くから、聖徒を前にいろいろとお話しされたり質問を受けられた。
御出発の予定時刻が迫ると、歌う聖歌も涙に変わり、大先生も名残り惜しそうに言葉を吐かれた。『いよいよ時間になってきました。会えば相対の原理で別れるということになりますよ。別れる悲しさがなければ嬉しさもない。泣いてはなりません。笑顔で送って下さいね』となだめられて…歌を4曲も歌って、お祈りされ、『先生は名古屋に来て安心しました』と言葉を残されて、午後2時、車中の人となられた。」(『成約新聞』特集号、1965. 3. 15付より)
1. 御言(1965. 2. 1、2. 2)
「先生が牢に度々入れられ、肉が裂かれ、血を流して打たれ、頭を叩かれて苦しい時、『助けてくれ』とは祈らなかった。先生は『神よ、安心して下さい』と、絶対的に信じているのです。
この日本に今必要なのは、金も名誉も地位も何もいらない。ただいるのは神の御こころに恥ずかしくない心情を持った人材が必要だ。しかし神は天宙の相続権をば、神の心情にかなった何もいらないという我が息子に与えるのである。」(2. 1、要約抜粋)
「統一教会は親の心情をもって僕の体を受肉して、涙は人類のために汗は地のために、血は天のために流す、そういう人が出てやっていかなければならない。先生がそういう40年間やった路程を皆も通らなければならない。」(2. 2、要約抜粋)
2. 名古屋の聖地決定(1965. 2. 2、東山公園内)
3. 揮毫
『天下統一之星』
『香花盛園之都』 他一題
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次回は、「大阪」をお届けします。