2022.04.15 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(47)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年11月21日)
だれを通過すべきか
私たちはこの原理を聞いて、自分のお父さんと接する時に、お父さんの立場より以上に自分が理念を探したとか、お父さんより国家のために情的な感化を受けたのなら、「お父さんに対して申し訳ない、今までお父さんに負債をかけたと、お父さんはこういう人生で私たちを育てるのに苦労した」と、涙を流しながらお父さんに付き合えば、そんなに悪くは言えないはずです。かえって、「自分の息子は今までこうではなかったのに、統一教会の教育を受けて、自分の親に対しての情を体恤するのを見ると、これは統一教会の教育は優れている」と言って、親が感化を受けるのです。
「自分は息子を育てながら、そういうふうに精神的に何も感化を与えたことがない、統一教会の教会長によってこういう立派な精神をもった人格に育てられたのを見ると、教会に感謝しなければならない」と言う親が出てこなければなりません。
初めは知らないから、うれしければ自分一人で喜ぶし、感謝することがあれば自分一人で感謝してしまいます。感謝の内面には涙があるはずなのに、涙を知らずに感謝する者は、いつかひどい目に遭う時があるのです。
アベルとカインとの関係において、カインが寂しい立場で、自分の弟と相談しにくかったという原因がどこにあるかというと、アベルが内的にそういう立場に立っていたのではなく、「祝福を受けた」、「成功した」、「神の立場に立った」というような気持ちだったからです。アベルを立てた目的は、カインとの人間関係をもつためだったので、カインと授受ができなかった責任は、アベルにもあると言えます。
堕落性を脱がなければならないカインの立場は、この復帰摂理においてはアベル一人を通じなければならないのです。今までの宗教家たちの神学では、地上で一人を通じなければならないというものはないし、私たちもそれをあまり貴重にしないし、生命視しないのです。「原理」や絶対者は貴重にするが、自分の目の前の人をどういうふうに貴重にしているかと考えると、自分を絶対視できない者に絶対者の相対ができるはずがないのです。ほとんどの信仰者が、み言(ことば)とか神様とか、そういうことは言うのですが、「あなたが通過しなければならないアベルはだれか」と聞くと、「分からない」と言うのです。
神の摂理というものは、アベルを通過しないとサタンを屈服できない絶対的な路程なのに、ほとんどの人がアベルに対して絶対者として侍ることはないのです。だから、義人のために生命をささげた人はいましたが、罪人に対して生命をささげた人はイエス様のみであり、それがイエス様の十字架の精神なのです。だから私たちは、お互いを通過しなければならないと言えるのです。カインならアベルを通過し、自分がアベルならカインを通過しなければならないのです。
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次回は、「存在基台は三点を通じて」をお届けします。