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心情開拓
心霊を育てる生活原則(45)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

お母さんとカイン

 このアダムの家庭の内容が聖書には何も書かれておらず、「原理」にもないのですが、どこへ行って探せばこの秘密が分かるかといえば、ヤコブの家庭です。ヤコブの家庭を見て、初めてアダムの家庭の内容が少し分かるのです。

 聖書に、ヤコブはお母さんと一緒になってエサウの長子の祝福を、パンとレンズ豆のあつものをもって受けて、エサウに憎まれて逃げ出したという内容があります。それを見ると、アダムの家庭のアベルも、母親と一緒になって神の祝福を奪ったのではないでしょうか。結果を見て、原因なる家庭の中がこういうふうになっていなかったか、と考えられるのです。そのため、「原理」にはお母さんのことは何も書いてないのですが、そののちにずーっと、母子協助があったのではないでしょうか。

 ノアの時もその妻が偉いし、アブラハムもその妻が信仰的に有名な人でした。だから、異邦人の王に捕まっていったことが二回もありましたが、一度目に行った時には、かえって万物を復帰して帰ったということが聖書の中にあります。それを見ても、立派な信仰夫人だったということは、間違いないのです。それからヤコブのお母さんである、イサクの妻リベカもそうです。モーセのお母さんもそうですし、マリヤもそうです。

 とにかく女を中心としないと、摂理ができないのです。女を失った人物は、絶対に神の前に立つことができなかったのです。イエス様も、エバが得られず、十字架につけられたのです。結局、マリヤが最後まで命を懸けてイエス様と一体となっていれば、ユダヤの社会の中で疑われることはなく、また、いくら若い女たちが集まって足を洗ったり、服を洗ってあげても、お母さんさえいれば人に疑われないはずだったのです。

 カインは不快心をもって、お母さんに相談したというよりも、不平を言って、その心をどんどん成長させていったのかもしれません。聖書には、それをどのように取り扱ったか書かれていませんが、とにかく情、あるいは不平というのは、不平をもった者と授受しないと成長しないのです。自分一人でもっていれば、日がたつにしたがって、だんだん沈んでいくはずなのです。

 いくら不平を言っても、だれも相手にしなければいいのです。サタンというものは主体関係をもって授受していかないと、力が増えていかないのです。力の原則からも分かるように、だんだん低くなっていくのです。だから、これはだれか授受した者がいるのではないかと考えられるのです。

 アベルを殺したあとに、親戚がみな「カインを殺せ」と、民族的にみんなで殺そうとしたのですが、カインはその時、神の前に出て悔い改めながら祈ったあとに、神よりカインを殺さないように一つのしるしをつけられるのです。

 これを見ると、家庭的にはアベルを排斥していなかったことが分かります。家庭でアベルを排斥していれば、「カインを殺せ」ということにはならないはずだからです。もしお母さんが排斥していたとしても、親戚から、弟に対して不平を言ってはならないということになっていれば、アベルは殺されなかったかもしれません。

 私たちは相当成長して、カインよりは理知的な人間ですから、カインとは少し違うのです。なぜかというと、自分の情を主体者と共に使い、自分は主体者の願う自分だということを知っています。必ず私たちには、相談する主体者がいるのです。だから、私たちは不快心をもって苦しんだりする必要はないのです。

 私的苦しみは自分にとって霊的にマイナスになりますが、公的苦しみは霊的に相当力を得るのです。それは同じ苦しみでも、公的苦しみは絶対なる神から愛されるから、霊的にはどんどん力を得て余裕があるのですが、私的苦しみは主体者からの力も来ないし、自分のもっている資本も少ないので、不平を言ってしまうと、それがみんななくなってしまうのです。だから私的苦しみは、霊的にすぐ乏しくなってしまうし、すぐ破壊されてしまうのです。

 私たちの「良い悪い」は何を中心として言うのかというと、自分の欲望を中心として言うのです。だから、いつもだれを中心とした欲望かということを調べないと、「自分は自分だ」と思いやすいのです。こう思ってしまえば、信仰者ではないのです。信仰者というのは、絶対者の相手であるということを、自分が認めているのです。

 私はだれの対象者だと、結婚した女性と同じように認めているのです。相手が決まった以上は、自分勝手なことを考えられないのと同じように、信仰者というのは、絶対者を主体者と決めているのだから、自分の欲望とか、自分の事情とか、ありとあらゆるものを、主体者通過したのちに自分のものにしないといけません。ただ自分が動機になってそれにとらわれてしまうやり方は、大きな死亡の道を歩かなければならなくなる仕方だと言わざるを得ないのです。

 だから、このカインは行く道がなかったのです。アベルに相談すればよかったのに、アベルに対して不快心をもったものだから、行く所がないのです。お父さんの所へは絶対行かれないので、お母さんの所へ間違いなく行くはずです。

 私たちの場合は、地区長と不和になったとしても、その他の地区長、部長の所に行けるように、アベルが多いため逃げ道が多いのですが、このカインはアベルが一人でほかにいないので、しゃくにさわって、結局はタンと授受しながら、最後にはアベルを殺す道に到達することになってしまったのです。ここで私たちは、喜んだり悲しんだり、笑ったりする情を、だれを中心として取り扱うかを学ばなくてはなりません。

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 次回は、「神によって定められたアベルの立場」をお届けします。


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