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「性解放理論」を超えて(22)
ライヒの思想④~家庭の否定

 人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

三 フロイト左派を超えて
(一)ライヒ

6)家庭の否定
 ライヒは家父長的な家族制度を権威主義的で、押し付けがましいとして攻撃します。権威主義的な家庭の原型は、父親、母親、子供からなる三角形であり、そのような家庭が人間社会の中核となっていると言います(※18)。そして「[家父長的な家庭は]人びとを性的なかたわにすることによって、家庭自身を再生していく(※19)」のであり、「[性の抑圧を]性的な障害や神経症や精神病や倒錯(とうさく)や性犯罪とともに、いつまでもつづかせる(※20)」と言います。

 ライヒはマルクス主義の立場から、既存の家庭は階級支配と性の抑圧の根拠地であると言いますが、「統一思想」から見れば、家庭は真(まこと)の愛の根拠地であり、理想社会の出発点なのです。

 ライヒによれば、家庭の原型は父親を中心とした、母親、子供から成る三角形であると言いますが、「統一思想」から見れば、家庭の原型は神(神の愛)を中心とした、父親、母親、子供から成る四位(よんい)基台です。ライヒは、家庭は人々を性的なかたわにすると言いますが、そうではありません。家庭は性の秩序の場であり、真の愛の基台となるのです。家庭を築かない人の性は無軌道で、かえって性的なかたわになりやすいのです。

7)フロイト批判
 フロイトは言語や意識的な思考の働きによって、性欲を抑圧し、中性化し、人格化し得ると考えましたが、ライヒは性を抑圧するのではなく解放せよと主張しました。

 ライヒによれば「フロイトのはじめの発見は、性を抑圧すれば、うたがいもなく、人びとは病気になるだけでなく、しごとをすることも、文化的な業績をあげることもできなくなる、ということをあきらかにしたものだった。道徳や倫理がおびやかされたので、全世界がかっとなってフロイトに反対した(※21)」のです。その結果、フロイトは性の解放に反対し、性を抑圧する方向──文化は本能を抑圧し拒否することによって成り立つ──に逆行してしまったと言って、ライヒはフロイトに反旗を翻すようになりました。そしてライヒは「精神分析の科学的なしごとは形而上学(けいじじょうがく)へと堕落した(※22)」と、フロイトを批判しました。

 ポール・ロビンソンはそのようなフロイトの二律背反について、その原因はフロイトに残っているユダヤ主義──性的謹厳を旨とし、一夫一婦制に対する伝統的な墨守の気風──にあると言います(※23)。

 フロイトの出発点は、性的抑圧、本能の抑圧が神経症の原因であるということでした。ところが後にフロイトは、エゴでもって性的本能の宿るイドを抑えることを主張しました。人間を性的衝動にかられた動物と見るならば、ライヒが主張するように、野生のままに解放せよという主張が生まれるのは、自然の成り行きです。フロイトにおいて、人間は、下半身は動物的存在、上半身は理性的存在ですが、ライヒにおいては下半身も上半身も動物的存在なのです。「統一思想」から見れば、人間は動物的存在ではありません。下半身も上半身も人間です。すなわち、愛と理性でもって本能的な肉心を主管するようになるとき、人間は心情(愛)を中心として、心身が統一した人格的存在となるのです。

 フロイトは超エゴからの人間の解放を叫びながら、エゴによるイドの抑圧を主張しましたが、それは心の葛藤を解消し得るものではなく、人間をいつまでもイドとエゴが対立する矛盾的存在とみなしたのです。それに対してライヒは、イド(リビドー)を超エゴとエゴから解放することによって心理的葛藤をなくそうとしました。しかし、それはかえって人間を動物的存在に貶(おとし)めようとするものでした。

 「統一思想」から見れば、生心と肉心が、愛を中心として主体と対象の関係で円満な授受作用を行うとき、心は葛藤から解放され、平安であり、喜びに満たされるのです。

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18 ウィルヘルム・ライヒ『性と文化の革命』(78
19 同上(86
20 同上
21 同上(1314
22 同上(10
23 ポール・ロビンソン『フロイト左派』(41

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 次回は、「ライヒの思想⑤~ライヒとマルクス主義」をお届けします。


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