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統一原理Q&A 26
縦からなる横的な蕩減復帰とは

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
 統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。

白井康友・著

(光言社・刊『統一原理Q&A み言による神の心情の再発見』より)

Q:アブラハムは鳩を裂かなかったために三祭物の献祭に失敗しましたが、アブラハムを中心とし、「縦からなる横的蕩減復帰」によって勝利したといわれるのは、具体的にどのような内容を意味しているのでしょうか、詳しく説明してください。

A:まず言葉の意味から吟味すると、復帰摂理では「縦」とは、歴史性を象徴しており、この箇所では「数代(特に3代)にわたるということ」を意味しています。また、「横的な蕩減復帰」とは「ある特定の使命者を中心として一時に蕩減復帰すること」(「原理講論」441頁)を意味しているので、アブラハム家庭を中心にして見ると、アブラハム、イサク、ヤコブと、三代の縦的な延長摂理がありましたが、それを延長と見ずにアブラハムを中心として、一代で一時に蕩減復帰したのと同じ立場に立たせる内容を意味しています。

 それでは、なぜ神がそのように認めてくださるのか、その理由を考えてみたいと思います。アラハムは、アダムの家庭とノアの家庭の過ちによって加重されてきたすべての蕩減条件を、一時に蕩減復帰しなければならない中心人物の位置に立っていました。しかし、アラハムは鳩を裂かなかったために、「象徴献祭」に失敗してしまったので、「予定論」に示されているように、ある摂理のために予定された人物が彼の責任分担を果たせなかった時には、その張本人を再び立てて摂理することができず、アラハムは摂理から外されてしまうはずでした。

 しかし、アブラハムがそれ以前のアダムやノアと根本的に違う点は、「メシヤのための家庭的基台」を復帰なさろうとする神の摂理において、アブラハムの家庭を中心とした摂理が第三次目であったという点です。

 統一原理によれば、「三数は完成数」なので、アブラハムの時にはこの摂理を完成すべき原理的条件があったのです。他にも蕩減復帰の原則により、アブラハムとその子イサクの親子二代にわたって摂理できる点や、アベルとノアの歴史的心情の基台が条件となっていました。言い換えるならば、神の摂理において、アラハムの次に、第四次摂理は絶対にあり得ないということです。

 しかし、事実においては失敗しているアラハムを、どうして再び立てることができたのでしょうか。そうするためには、既に失敗しているアブラハムを失敗しなかったと同じ立場に立たせる必要があり、それには以前よりもつと大きな蕩減条件を立てることによって、「象徴献祭」の失敗で失ったすべてのものを蕩減復帰する「増償法」の原則がありました。

 それが実子イサク献祭だったのですが、アブラハムは自分が死ぬ以上の苦痛や苦悩を味わいつつ、その心情的蕩減復帰の条件によって、失敗したすべての内容を清算することができたのです。

 イサク献祭はアブラハムの忠誠と、それに劣らないイサクの忠誠とが一つとなって勝利して、「象徴献祭」の失敗で侵入したサタンを分立することができ、二人とも死んだ立場からよみがえることができました。

 そこで、お互いに個体は違いますが、神のみ旨を中心として見れば一体不可分の立場に立ち、アラハムからイサクヘと摂理が延長しても、イサクの「象徴献祭」成功はすなわちイサクと一体となっているアブラハムの成功ともなり、み旨を中心として見ればアブラハムは失敗せず、また、その摂理も延長されなかったと同じことになるのです。


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 さらにヤコブはイサク家庭において、「メシヤのための基台」を造成するための「実体基台」の中心人物として、イサクの立てた「信仰基台」の勝利の上に、カィン的立場である兄エサウを自然屈伏せしめて、見事に「実体基台」を勝利したので、歴史的に初めて「メシヤのための家庭的基台」を造成し、ヤコブ家庭は将来「メシヤのための民族的な基台」を立てて、イサクの目的を、民族的に成就すべき蕩減路程を出発しました。

▲ヤコブとエサウの和解(ドレ)

 こうして本来はアブラハム一代で成すべき「メシヤのための家庭的基台」が、「象徴献祭」の失敗以来、イサク、ヤコプが一体となって成就したので、アブラハムを中心とした復帰摂理はイサク、ヤコプヘと延長された形を取りましたが、神の摂理的観点に立ち、み旨を中心として見ると、摂理は延長されずアブラハム一代で成就されたのと等しい結果になります。ゆえに神は、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エ三・六)と語っておられるのです。

 この聖句に対して、李ヨハネ先生は「神様のアラハムではなく、アラハムの神様であるということは、神様がアラハムのものになった。アブラハムに所有されたということです」(説教「神を所有するもの」1979.1.1)と述べておられますが、正にアラハム、イサク、ヤコプは一体となってみ旨を成就することによって神の心情を占領し、神が永遠に記憶せる勝利を成し遂げたのです。

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 次回は、「ホームチャーチの理論と実践〜はじめに」をお届けします。