2022.02.06 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(39)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道
牢屋で最初の弟子を得る
牢屋の中には柵があります。あるものは鉄格子のような柵です。そこから全部見えるようになっています。少し空気が入るようになっているのです。そこから物を入れます。この片方にトイレがあります。トイレといっても、おけのようなものが置かれていて、その上に座って用を足すのです。ですから人のいる中でしなければなりません。見える中で……。においも全部出ます。もし、下痢でもしたら大変です。
入り口だけは格子ですから、空気の流通は非常に良かったのです。その部屋に最初に入って長くいる者は班長になるのです。そして風通しのいい所に座るのです。最後に入った者は、トイレのすぐ隣に座らなければなりません。死刑囚は、長い日数をかけて判決が下されます。牢屋の中で、金元徳(キㇺ・ウォンドㇰ)さんは一番長くいましたから、班長になっていました。
寝るときは、下は床だけで、何もありません。そして寝るのも、そのままで、毛布一枚を下にして寝るのでした。また、日中寝ているのではないのですから、朝の一定の時間に起こし、夜も一定の時間に寝かせるのです。昼間は横になることもできません。正座の形できちんと座っていなければならないのです。足も長く伸ばすことができません。
最初に入った者は、いい所に座るのです。そして、その人が出てしまったら、その位置を代わるのです。牢屋の経験のない人は、入ったらどのようにしたらいいのか全然分かりません。しかし、先生は学生の時から幾度も牢屋に入った経験がありますので、入るやいなやあいさつをして、自らトイレの近くに座られました。
1955年に先生が牢屋に入られた(七・四事件)時は、私も一緒に牢屋に入りました。同じ部屋ではないのですが、その経験によって、先生はどれほど牢屋の生活に慣れていらっしゃるかを、つくづくと知ることができました。
社会ではいくら教授であっても、高官であっても、いったん牢屋に入れば、どろぼうと全く同じです。先に入った者が親方になっていて、長官であっても、大臣をした人でも、あとからそこに入ったら、丁寧にあいさつしなければいけません。「私は大臣をしたから、牢屋の中でも自分は大臣だ」と言ったら、みんなから殴られて、生き残れません。皆さんは、そういうことが分からないですね。牢屋には牢屋の規則があるのです。ですから、意地の悪い者たちは、「這いなさい」と言ったり、いろいろなことをさせたりします。布団なんかをかぶせて殴ります。誰が殴ったか分からないのです。先生はそういう経験をよくされました。それであいさつをして、すぐ全く同じ生活に入りました。
ところが、先生を待っていた青年は班長ですから、風通しのいい所にいるのです。その青年は、先生が入ってくるのを見ると、我知らず心が引かれていったのです。そこで彼は規則を破って、先生を自分の隣に呼んだのでした。
先生は共産主義社会の様子をよく御存じなので、牢屋の中では絶対に何も語りませんでした。共産党の牢屋には、たくさんの思想犯が入っていました。共産党は、秘密党員を思想犯や政治犯のようにして、その中に入れます。そして、思想犯や政治犯のように気軽に話をするので、味方だと思ってつい話をしてしまいます。そうすると、その人に秘密を知られてしまうのです。
3日目に彼は先生に、「私たちにお話をしていただけませんか」と願ったそうです。そこで先生はこの人たちに、今まで先生がみ旨のために、人類のために歩んでこられたその路程を、ロレンスという人の名に例えてお話しされました。その話が終わってから、先生はこの青年に向かって、「あなたは誰にも言えない自分だけの悩みをもっていないか」とおっしゃり、おじいさんが現れた時の話を、暗にその青年にお聞きになったのです。先生は、この青年に意味があることを御存じだったのでした。彼は先生のみ言を聞く中で、おじいさんが現れて教えてくれたのはこの方であることに気がついていました。それでその青年は驚いて、今までの出来事を先生に詳しく話したのでした。彼は深く感激し、先生の弟子となることを誓いました。そして牢屋の中での、最初の弟子になったのです。
このように先生が神のみ意、神のみ旨を成就せんとして心情を尽くし、誠を尽くして行く道で、たとえどういう困難が襲ってきても、神は愛する子のために、神だけが知っている準備をされる、ということをお話ししたいのです。ですから皆様も、神に愛されるようなみ旨を携えて行く道に、どういう難しいことがあろうとも、つらいことが襲ってこようとも、心配しなくてもいいというのです。先生は牢屋に入られる時、全く心配なさらなかったのです。
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次回は、「獄中から食口のために祈られる」をお届けします。