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統一原理Q&A 23
イエスの復活に関する統一原理の見解

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
 統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。

白井康友・著

(光言社・刊『統一原理Q&A み言による神の心情の再発見』より)

Q:十字架上で亡くなられたイエスが、三日後に肉体をもって復活されたと聖書に書かれてある内容はどう理解すべきなのでしょうか。このイエスの復活に関して、従来のキリスト教の見解と「統一原理」の見解との根本的な相違点を説明してください。

A:今日までキリスト教信徒や大多数の聖職者たちは、使徒パウロの「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」(コリントⅠ一五・一七)という言葉を引用して、イエスの肉体的復活こそがキリスト教信仰の核心であると主張してきました。それゆえ、「統一原理」においても「復活論」で詳しく検討されていますが、まずそれを要約してみます。

 創造原理によれば、人間には肉身と霊人体とがあり、肉身の死は、本来堕落とは関係なく、老衰すれば自然に到来するものであり、一度死んだ者が再び肉身をもってよみがえるということはありません。ゆえに、堕落によってもたらきれた死とは、霊人体が神の愛の主管圏を離れてサタンの主管圏に落ちたという意味になります。そして復活とは、人間の堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から復帰摂理によって、神の直接主管圏内に復帰されていく過程的現象を意味します。

 このような復活の定義に照らし合わせて、イエスの復活について考えてみましょう。

 イエスは私たち人類の罪を背負い、代償的身代わりの贖(あがな)いとして十字架にかけられたため、罪人という立場で亡くなられました。それゆえ、いったん神に捨てられ(マタイニ七・四六)、黄泉(よみ)(地獄)に下られました(使二・三一)。しかし、イエスは十字架の死に至るまで神に従順であられ、迫害する人々をも許し執り成しの祈りをされて行かれました。「イエスは十字架の路程を通過しながらも神に感謝の念を持ったのです。十字架ののちにも感謝の念が残っていなければ復活できないというのです」(「心情の境」1967.6.12)と文先生も語っておられるごとく、十字架上において、神に対する絶対的信仰と心情の勝利の基準を立てられたので、「神は彼(イエス)を高く引き上げ」(ピリピ二・九)、神の右に座することを許されたのです。このように、人類の罪を背負って黄泉に下られたイエスが勝利され、再び神の愛のもとに復帰されたことが、正にイエスの復活の根本的、本質的意義であります。

 それゆえ、復活されたイエスが弟子たちの前に姿を現されたということは、復活の本質的出来事の現象的な側面でしかなく、あくまでも肉体的復活ではなく、霊眼の開いた弟子たちがイエスを見たことにほかなりません。


▲イエス、二人の弟子に語る(ドレ)

 イエスは復活されたのち、聖霊を復帰して霊的な真の父母(メシヤ)として立たれ、新生の摂理をされて今日まで、キリスト教を導いてこられました。ゆえに、「キリスト教は十字架を通してでなく、復活を通してである。もし復活がなければキリスト教の始まりは果たし得ない」(「天宙に立つイエス様」1965.10.3)と、文先生は語っておられるのです。

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 次回は、「ヤコブの長子権復帰について」をお届けします。