2022.01.30 22:00
統一原理Q&A 22
イエスの十字架の根本的意義とは
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。
白井康友・著
Q:キリスト教の根本は十字架信仰と言われ、十字架問題を何よりも大切な出来事としてとらえているにもかかわらず、『原理講論』にはあまり詳しい説明がないように思います。「統一原理」の観点から見て、イエスの十字架の根本的意義はどのようなところにあるのでしょうか、説明してください。
A:そもそも神の目的は、イスラエル民族を中心民族(選民)として立て、そこにメシヤを遣わし、この民族の救いを起点として、全人類の救いを全うするところにありました。しかし、洗礼ヨハネの不審をきっかけとして、ユダヤ民族全体がイエスに対して不信し始めた瞬間から、サタンが不信を讒訴条件として民族の中に侵入してきたのです。
聖書の中に、サタンを「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」(黙示録一二・一○)と表現されているように、天の法廷において神が裁判官の立場であるとすれば、サタンは検事の立場で絶えず人間の犯罪を神の前に訴えているのです。「不信の代価は蕩減の提示であることを原理が示しているではありませんか」(「霊界における王権の統一」1984.2.20)と、文先生も語っておられるごとく、この当時もサタンは、神に対して「メシヤに対する不信の罪の償いとして、ユダヤ民族のすべてを滅ぼすべきではありませんか」と訴えてきたのです。
確かにメシヤはその価値において、ユダヤ民族のみならず人類全体の価値に匹敵するお方ですから、サタンの訴えもそれなりの正当性がありました。
しかし、神がメシヤを送られた根本的目的はあくまでもユダヤ民族をはじめ、全人類を救おうとするところにあったので、彼らがメシヤに不信仰したからといって、神はそのような審判をすることはできませんでした。
「神は愛する者(アベル)を打って犠牲の道を行かせ、反逆する人間(カイン圏)を救われる」(「心情の境」1967.6.12)というみ言のごとく、神はその独り子として最愛の立場にあるイエスをサタンに引き渡してでも、それを条件として救いの摂理を展開しようと考えられたのです。しかし、正にそれがサタンの願いであり、目的でもありました。
なぜならば、アダムの堕落以来、神の4000年の復帰摂理の第一義的目的が、メシヤ一人を立てるところにあることをサタンはよく知っていたので、そのメシヤ一人さえ殺せば神の全摂理を破綻に導くことができると考えたのです。ゆえに、サタンにとってはユダヤ民族を滅ぼすことが問題ではなく、彼らの犯罪を取り引きの条件として、イエスの命を要求することが最大のねらいでした。それに対して神はサタンの意図と目的のすべてを御存じでありながらも前述した理由により、イエスをサタンのほうに引き渡さざるを得ませんでした。最愛の子女を打ってまでも、復帰の摂理を推し進めねばならない神の心情は、悲しみと苦痛に張り裂けんばかりであったに違いありません。
このようにしてサタンが自己の最高最大の実権を行使してイエスを十字架にかけた瞬間、彼が4000年の歴史路程を通じてその目的としてきたことを達成したのです。サタンは勝ち誇ったごとくに、虎視耽耽と十字架上のイエスを見つめており、“今にイエスは呪いつつ怨(うら)んで死んでいくに違いない”と考えたのです。
十字架の刑は、その当時の極刑であり、いかなる犯罪人もあまりの苦しさと痛みの中で、すべてを呪い怨みつつ、絶叫して狂い死にしていくと言われるほどの内容です。まして何ら罪なき立場でありながら、民族の不信仰のゆえに十字架にかけられたイエスであり、普通の人間でしたら自分を裏切った民族を呪い、槍を向けてくるローマ兵士を怨んで死んでいくのが道理です。
しかし「イエスはゴルゴタの道を行きながら、兵卒の槍で胸を突かれるような立場に立たされ、それでもイエスは、ただ笑いながら笑いながら死の峠を越えていった。そうしなければ勝利者になり得ない。敵が自分を殺すんだという、血気の気持ちで死んだらいけない。素直な雀が主人の手によって捧げ物になる気持ちで行かなければならない運命にあるのがイエスであった」(「イエス様の最後と我々の覚悟」1965.1.31)と文先生が語っておられるごとく、十字架の絶頂に至るまでイエスは神に従順であられ、迫害する人々をも許して執り成しの祈りをされていきました。
このようにイエスは、十字架上にあって、最後まで神に対する絶対的信仰と心情の勝利基準を立てられ、正にその心情圏にはサタンも指一本侵害することができず、完全な霊的サタン不可侵圏を築かれたのです。
神はこのイエスの勝利した内的条件をもって、救いの摂理を出発することができました。既に、サタンが自己の最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を行使し得る条件が成立したのです。サタンの最大の実権行使がイエスを殺害するところにあったとすれば、神の最大の実権行使は死んだイエスを復活させて、霊的救いの道を開くところにありました。
正にイエスを中心として、サタンの最大の実権行使と神の最大実権行使が、見えない世界において火花を散らすように交叉(クロス)しており、それが外的な十字架(クロス)として現れていると見ることができ、この原理的観点こそが十字架の根本的意義といえるのです。
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次回は、「イエスの復活に関する統一原理の見解」をお届けします。