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統一原理Q&A 21
洗礼ヨハネの不信の理由

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
 統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。

白井康友・著

(光言社・刊『統一原理Q&A み言による神の心情の再発見』より)

Q:洗礼ヨハネは父ザカリヤが祭司職という、当時においては名門の出身であり、本人も立派な人物であったにもかかわらず、最終的にはどうしてイエスを不信してしまったのでしょうか、その根本的理由を説明してください。

A:洗礼ヨハネがイエスに対して不信した事実に関しては、『原理講論』の中で明確に記されていますが、その動機や理由に関しては体系的に述べられていないので、様々な観点よりまとめてみたいと思います。

 まず第一に、ヨハネのイエスに対する愛の減少感の問題が挙げられます。ヨハネとイエスの摂理的位置関係は、エデンの園における天使長ルーシェルとアダムとの関係に相当し、天使長ルーシェルが越えることのできなかった愛の試練を、ヨハネは越えていかねばならないという課題がありました。ヨハネによる福音書三章二二節から二六節を見ると、ヨハネはイエスと別に洗礼を授けており、そのことが原因となってヨハネの弟子たちとイエスの弟子との間で清めのことで論争が生じました。

 その中でヨハネの弟子が、「皆の者が、そのかた(イエス)のところへ出かけています」と説明していますが、次第にイエスの名声が高まり、イエスが神の栄光を受けてゆく姿に、ヨハネの内心は愛の減少感から生ずるところの寂しさがあったのです。事実ヨハネはその後、「彼(イエス)は必ず栄え、私(ヨハネ)は衰える」(ヨハネ三・三○)と語っていますが、既成のキリスト教会ですら「彼の最後の言葉は人の哀感を誘うものがある」と感想を述べており、ヨハネの寂しさを感じているようです。

 ヨハネには数多くの弟子がおり、彼らに対しては教祖的立場として、中心者(主体者)として立っていました。しかし、イエスは神から遣わされたメシヤですから、摂理的にはイエスに対してヨハネは対象の立場に立っていたわけです。中心者として立っている人物が、より主体の前に完全なる対象圏に立っていくということは、主体にすべての栄光を帰していかねばならず、とかく主体に対して愛の減少感や不信感を生じやすい立場です。それゆえにいつも二の立場はサタンに奪われてきましたが、ヨハネも例外ではありませんでした(図参照)。


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 第二に、ヨハネはユダヤ民族の中でも相当尊敬され慕われていたので、その立場があればあるほど、持てるがゆえに捨て切れず、社会的面子と威信のゆえに、イエスに従っていくことができなかったのです。

 第三に、ヨハネが神の摂理に対して無知であったことが挙げられます。ヨハネによる福音書一章二三節によれば、自分にはメシヤの道を直くするエリヤ的使命があることを知りながら、はっきりと「私はエリヤではない」(ヨハネ一・二一)と否定していますし、また、ヨハネによる福音書一章三三節から三四節を見れば、イエスがメシヤであることを証していながら、最終的にイエスを不信したことからもはっきりと指摘することができます。

 第四に、ヨハネがイエスを人間的に判断してしまった点が挙げられます。「原理講論」にも、「彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや」(前掲書201頁)と書かれてあるごとく、人間的立場に立ってイエスを見てみると、イエスはヨハネの半年も年下の従兄の関係にあり、世間からは無学の青年、私生児として見られており、律法や社会倫理を破壊する者であるかのような評価をされていたので、ますますイエスに対して蹟(つまづ)きを覚えてしまったのです。

 さらに、アベル・カインの観点から考えてみると、本来カインはアベルを平面的、人間的に見るのではなく、立体的・縦的観点から見つめ、目の前のアベルに対して神様に侍るように侍ることが重要です。しかし、人間的にイエスを見つめるようになったヨハネは、「一層イエスに対する不信を引き起こすように」なってしまったのです。

 第五に、ヨハネの誤ったメシヤ観の問題が指摘されます。聖書の中で「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」(マタイ三・一一)と語られているごとく、ヨハネは来たるべきメシヤに対して、相当神秘的なイメージを抱いていたことが分かります。

 しかし、実際のイエスの姿は、外的風貌や社会的評判から比較してみるとあまりにも食い違っており、彼の描いていた理想像は音を立てて次第に崩れ始めたのでした。正に、ヨハネの抱いていた誤ったメシヤ観、誤ったメシヤ像のゆえに蹟いてしまったのです。

▲イエスと洗礼ヨハネ(カール・プロック)

 以上のような理由で、ヨハネはイエスに不信感を抱いてしまいました。文先生は結論的に次のように語っておられます。

 「彼は疑ったのです。彼は懐疑的になり、とうとうイエスの身分が分からなくなってしまいました。ついには、神の子であると自ら証したことさえ確信できなくなったのです。彼は失敗者となってしまったのです」(「キリスト教の新しい未来」1974.9.18)。そして、「この真実は、それがたとえいかに心苦しいことであっても言明されなければなりません」(同)。

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 次回は、「イエスの十字架の根本的意義とは」をお届けします。