2022.01.31 22:00
「性解放理論」を超えて(18)
性道徳の破壊と宗教の否定
人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
二 フロイトを超えて
(九)性道徳の破壊と宗教の否定
フロイトは道徳や倫理の起源に関して、「原父殺害」の仮説を立てました。したがってフロイトにおいて、道徳や倫理は絶対的な父権を中心とした権威体制の反映であり、一種の強迫観念的な掟(おきて)であり、一種のタブーにすぎないのです。そしてキリスト教は一つの集団幻想であり、空想の産物にすぎないのです。
フロイトは『幻想の未来』の中で、個人の幼児期の体験が強迫的な力をもって個人の心理の中に迫ってくるのが強迫神経症(obsessional neurosis)であり、小児期神経症(childhood neurosis)と述べています。同じく個人の幼児期の体験が大人の社会に投影され、強迫的な力をもって集団心理の中に迫ってくるのが集合的神経症(collective neurosis)であり、それがすなわち宗教であると言います。つまり、宗教は幻想であると言い切ったのです(※30)。
ピーター・ゲイ(Peter Gay)が言うように、「宗教信仰とは一種の文化的神経症だというフロイトの極端な信念なのだ。彼はこれを公言していた。すなわち、宗教は大人の生活のなかでの幼児的無力感の遺物であり、願望思考の最良の事例、妄想的な病気すれすれの幻想なのである(※31)」。
フロイトは科学の発展とともに宗教は崩壊すると信じていました。ピーター・ゲイによれば、「ディドロは1759年に“宗教は哲学が進むに応じて後退する”と書いていた。フロイトもこれに同意した。善意の人間が科学の家を建てることができるのは、宗教の廃墟(はいきょ)の上にのみであろう、と。彼[フロイト]は科学と地盤を争うことのできる三つの勢力──芸術、哲学、宗教──のうち、“手強い敵は宗教だけである”と書いた(※32)」のです。
フロイトは、『幻想の未来』の中で簡潔に述べているように、「理性より以上の控訴審は存在しない(※33)」と考えていました。そして「人間は、自分が自然の主となり、また自分自身の主となるまで、理性を発展させて行かねばならない(※34)」というのがフロイトの信念でした。かくしてフロイトは、理性の名のもとで、宗教に宣戦布告を行ったのです。
しかしながら、第一次世界大戦における人間の破壊衝動、ヒトラーの絶叫に対して、最も理性的な人間であると思われたドイツ人が無力であったことを目撃したフロイトは、ペシミズムに陥ったのです。
フロイトによれば、個人の幼児期の体験が大人の社会に投影され、強迫的な力をもって集団心理の中に迫ってくる集合的神経症が宗教です。つまり、宗教は幻想にすぎないと言うのです。
フォイエルバッハは、不完全で不安な人間が完全であることを願い、理想的な人間像を心の中につくりあげて、それを外部に対象化して、神として崇(あが)めるようになったとして、宗教は幻想にすぎないと考えました。それに対してフロイトは、幼児期の無力感が大人の心に投影された集合的な幻想が宗教であると考えたのです。両者共に宗教を幻想と見ていますが、フォイエルバッハが宗教を個人の幻想と見たのに対して、フロイトは集合的な幻想と見たのです。
そのように、フロイトは宗教を否定し、ひいては神の存在を否定したのです。しかしフロイト理論の土台となっているエディプス・コンプレックスや原父殺害説自体、根拠のないものです。それは、エデンの園における堕落行為に由来する、人間の心の暗闇を見つめたものです。したがって、そのような心の暗闇が取り除かれるとき、光の中に、実在する神が現れてきます。そして、神の言(ことば)に由来する性道徳を受け入れるとき、われわれは真なる愛へと導かれるのです。
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※30 鈴村金彌(きんや)『フロイト』清水書院、1966(172)
※31 ピーター・ゲイ、入江良平訳『神なきユダヤ人』みすず書房、1992(41~42)
※32 同上(51)
※33 同上(49)
※34 エーリッヒ・フロム、谷口隆之助(たかのすけ)・早坂泰次郎(たいじろう)訳『精神分析と宗教』、東京創元社、1953(32)
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次回は、「ライヒの思想①」をお届けします。