2022.01.24 22:00
「性解放理論」を超えて(17)
性の民主主義、理性の崇拝
人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。
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大谷明史・著
二 フロイトを超えて
(八)性の民主主義、理性の崇拝
キリスト教道徳による性の抑圧に反旗を翻したフロイトでしたが、結局、人間は一人一人、自ら性をコントロールすべきであると主張したのです。すなわちフロイトは、性に対するキリスト教による封建主義的、君主主義的、専制的な抑圧から人々を解放し、各人が、合理的な自我によって、主体的に性をコントロールする、言わば「性の民主主義」を主張したのです(※25)。言い換えれば、彼は外的な強制的な性の抑圧に反対し、内的な自律的な抑圧を説いたのです。フロイトの有名な言葉があります。
精神分析療法の意図は、自我を強くし、もっと超自我から独立させ、その組織を拡大し、それによって自我がエスの新しい部分を自分のものにできるようにすることである。かつてエス[イド]があったところに自我をあらしめなければならない。それは一つの文化事業であり、オランダのゾイデル海の干拓と似たようなものである(※26)。(『続・精神分析入門』)
「“自我”は、イドに対抗して自己を防衛するように、“超自我”に対しても自己を防衛しなくてはならない(※27)」、すなわち、「イド(悪しき衝動)と超自我(封建的道徳)に対してともに闘う(※28)」というのがフロイトの結論でした。
マルクスは資本主義社会において、資本家と労働者の階級対立があり、資本家が労働者を支配し、搾取していると見ました。そして労働者が資本家を倒して、全ての人が労働者になれば、労働者は解放され、自由な理想社会が実現できると考えていました。しかし実際は、労働者の代表であるという名のもとに、共産主義者が権力を奪取し、共産党が人民を暴力で支配する独裁社会となってしまったのです。
一方、フロイトは心理的な葛藤からの解放を叫びました。すなわち人間の心の中にはイドとエゴの葛藤があり、さらに超エゴによる抑圧があると見ました。そして、各自の自律的な理性によって、イドの悪しき衝動を抑えながら、超エゴによる抑圧と闘えと叫んだのです。かくして人間は解放され、理想的な姿になると、フロイトは考えました。資本家による経済的抑圧からの解放を叫んだマルクスに対し、フロイトは超エゴによる心理的な抑圧からの解放を叫んだのです。
しかしその結果、フロイトは絶対的、普遍的な規範を否定することにより、性行動の決定は個人の意志に任せるべきであるという“性の自己決定(self-determination)”の主張に道を開くことになりました。さらに人間を本来、性的な存在と見ることから、自然の成り行きとして、フロイト左派の性解放理論が生まれることになったのです。
フロイト自身は性解放には反対でしたが、彼の理論は、下半身では性本能、上半身では理性主義というものであったのです。それはフォイエルバッハにおいて、下半身は唯物論、上半身は観念論(人間愛の主張)であって、自己矛盾していたのと同様に、フロイトも自己矛盾を抱えていたのです。
フロイトのそもそもの出発点は、人間は性的衝動に駆られた本能的な存在と見るところにありました。ところがフロムが言うように、「フロイトは決して性的自由思想の代弁者ではなかった。むしろ反対に、私が前に述べようとしたことだが、彼の理想は情熱を理性によって統制しようとしたことであったし、彼自身の性に対する態度は、ビクトリア風の性的習慣の理想に従っていた(※29)」のです。そのように、フロイトの主張には自己矛盾があったのです。
フォイエルバッハに対して、下半身は唯物論者であるが、上半身は観念論者であると言って批判したのはマルクスでした。そしてマルクスは全て唯物論で一貫している理論を構築しようとしたのです。その結果が、暴力革命を目指すマルクス主義となりました。同様に、フロイトの矛盾性を批判するライヒやマルクーゼのようなフロイト左派が生まれ、彼らは性本能、リビドーに基づいた一貫した理論を構築しようとしました。その結果が性解放理論となったのです。
「統一思想」の観点では、エゴとイドの関係は生心と肉心の関係ですが、両者は対立、闘争の関係ではありません。愛と規範を中心とするとき、生心は肉心と円満な授受作用を行い、両者は共鳴するようになります。すなわち、肉心は生心に自然に従うようになるのです。フロイトはさらに、超エゴを構成している宗教的道徳が人間を抑圧していると言いますが、宗教の教えは、本来、人間を抑圧するものではありません。神の戒め、ロゴス、天道と呼ばれるものは、真(まこと)の愛を実現するための規範なのです。規範を守ることによって、愛が真なる愛として現れるのであり、規範を守らない愛は、かえって破壊的な愛となるのです。
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※25 小此木啓吾『エロス的人間論』講談社、1970(85)
※26 アンソニー・ストー『フロイト』(187)
※27 ラッシェル・ベイカー『フロイト・その思想と生涯』(194)
※28 小此木啓吾『エロス的人間論』(107)
※29 エーリッヒ・フロム、佐治守夫訳『フロイトの使命』みすず書房、1966(169)
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次回は、「性道徳の破壊と宗教の否定」をお届けします。