2022.01.19 17:00
中和新聞セレクト Vol.3
生活信仰のすすめ
毎週2回(火、金)、さまざまなコンテンツを配信している『中和新聞』。Blessed Life編集部が同記事のアーカイブスからおすすめのコンテンツをセレクトして皆さまに紹介します!
第3弾は「生活信仰のすすめ」(家庭カウンセラー:内田由喜氏)のシリーズを毎週水曜日(予定)にお届けします。
同コンテンツは『中和新聞』2020年4月から連載中のシリーズです。
第7回「十一条」について〈前〉
本シリーズでは、信仰の基本的な在り方や実践について考えます。日々の生活を通して神様を感じる生活が大切です。今回は、「十一条」について2回に分けて考えます。(『祝福家庭』での連載を整理したものです。文責・編集部)
今回は、万物主管の一環である「十一条」について学んでみたいと思います。私たち祝福家庭は、生活の中で、神様の創造理想を成就することを目指し、励んでいます。
[Ⅰ]「神様が創られた万物」として向き合う
天の父母様(神様)から受けた「三大祝福」の最後が「万物主管」なので、祝福家庭にとっても万物主管は最後の課題であると言えるでしょう。
地上世界に対して神様ご自身、実体をお持ちではないので、万物に対する所有権があっても、神様が直接、万物を主管なさることはできません。
一方、私たち人間には万物に対する主管権が賦与されています。ですから、私たちが神様の愛と一つになり、万物主管の権限を相続して、真の愛で正しく万物を主管することで、初めて神様による万物主管が可能となるのです。
しかし、人間始祖の堕落によって人間は、真の愛で万物を主管することができなくなりました。
それゆえ、神様は歴史を通して全ての万物を、堕落した人間の自己中心的な欲望から解放し、神様の愛による本来の所有へと戻し、万物との本然の関係を回復しようと試みてこられました。
それほど神様は、ご自身が創造された全ての万物を慈しんでいらっしゃいます。たとえ私たちが高い技術力で万物を加工できたとしても、神様のように創造することはできません。
私たちは、神様がお創りになった万物であることを常に考えながら、父母の心情圏で万物を愛し、万物に向き合っていくことが必要です。
■「十分の一(供え物)」に関する歴史
天に十分の一を捧げる伝統的内容について見ていきます。
①最初にアダム家庭は供え物をしました。
「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた」(へブル11・4)
②ヤコブ家庭は十分の一の供え物をしました。
「ヤコブは誓いを立てて言った、『神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます』」(創世記28・20~22)
③主の前に、産物の十分の一を取り分けるようにしています。
「あなたは毎年、畑に種をまいて獲るすべての産物の十分の一を必ず取り分けなければならない。そしてあなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一と、牛、羊のういごを食べ、こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない」(申命記14・22~23)
④十分の一を宮に納めています。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」(マタイ23・23)
■最初に、最高のものを天に捧げる
このように、聖書を通してキリスト教では、公的な精神をもって、十分の一の供え物、献金を伝統としてきたことが分かります。
歴史を振り返ると、条件物(供え物)は私の命の身代わりとして捧げたものであり、いわば私の代わりとなって“死ぬ(犠牲となる)”というものでした。
ですから供え物は、愛と精誠を込めて、神様の前にお捧げするものであり、いちばん初めに最高のものを神様にお捧げすることです。
十一条を捧げる姿勢について、真の父母様は次のようにおっしゃっています。
「皆さんが、統一教会に入ってきて、蕩減復帰という言葉を学びました。蕩減復帰をするためには、祭物的な条件が必要なのですが、祭物をささげるために、どれほど精誠を尽くしましたか? 精誠を込めた思いがありますか? でたらめな者たちばかり集まっているというのです。
思いのままにすれば、どれほどいいでしょうか? 思いどおりにして、神様が受け取ることができるかというのです。とんでもないことだというのです。ですから、条件物は私の生命の身代わりです。私の代わりに死ぬのです。
ですから、その条件物とは、完全に一つにならなければならないし、完全に愛さなければなりません。愛の対象として対しながら、それが死を受ける時、共に痛みを感じて、心で泣きながら、祭事をささげなければならないのです」(『牧会者の道』306~307頁)
「精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。その子孫が、物質に関して窮乏に遭わないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。それが信仰の本質です。
適当にするのは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。ですから、最も貴いものを捧げなければなりません。地上人にとって一番貴いものは生命です。ですから、『私』の生命を捧げるのです。これが、蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです」(天一国経典『天聖経』11・2・2・5)
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次回は、「『十一条』について〈後〉」をお届けします。
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