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「性解放理論」を超えて(15)
快感原則と現実原則

 人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

二 フロイトを超えて

(六)快感原則と現実原則

 フロイトによれば、人間は快感原則(pleasure principle)と現実原則(reality principle)という二つの原則に従っていると言います。イドが快感原則──快を求め、不快を避けること──に従っているのに対して、エゴ[自我]は、現実原則──欲求をそのまま満たすことを我慢して、現実に見合った形で満たそうとすること──に従おうとします。かくしてエゴにより、人間の体に満足感の遅れや延期を我慢させ、人は「考える」ようになると言うのです。ディヴィッド・コーエン(David Cohen)は次のように言います。

 [イドは] “快感原則”に従って、がむしゃらに手っ取り早い満足を追求する。この衝動の塊から、パーソナリティの現実的で合理的な部分である自我(エゴ)が発達してくる。自我はイドを満足させようとするが、現実世界の制約の枠内でそれをしなければならないことを承知してい(※18)。

 生まれたばかりの赤ん坊の心は、大部分がイドで占められていますが、イドはただ、快感原則に支配され、本能的欲求を満足させようとするだけです。やがて赤ん坊が成長するにつれて、エゴが発達し、現実原則に従うようになります。快感原則と現実原則は互いに相反するように見えます。しかしながら、フロイトにおいては、「快感原則と現実原則はたがいに相反するものではなく、……現実原則は、同じ目的──つまり快感──を得るためのより時間をかけた複雑な過程にすぎない(※19)」と言うのです。

 フロイトによれば、快感原則とは、快を求め、不快を避けようとするイドの従う原則であり、現実原則とは、欲求をそのまま満たすことを我慢し、延期する、エゴの従う原則であると言います。そして現実原則も結局は快感を求めるための時間をかけたプロセスであって、両者は共に快感を求めているのだと言うのです。そのような人間は衣食住と性欲を中心とした本能的な存在であって、真善美と愛の価値を求める人格的存在ではありません。結局、現実原則に従う人間とは、行儀の良い動物と変わりないのです。「統一思想」の観点から見ると、人間が従うべき原則(規範)とは、肉心の欲求を我慢し、延期させるためのものでなく、肉心の機能を真(まこと)の愛の実現へと導くための愛の道なのです。

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※18 デイヴィッド・コーエン『心と脳』(41)
※19 リチャード・アッピグナネッセイ『フロイト』(144)

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 次回は、「エロスとタナトス」をお届けします。


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