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「性解放理論」を超えて(14)
愛と性

 人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

二 フロイトを超えて

(五)愛と性

 フロイトは、愛は人間にとって本質的なものでなく、性的エネルギーに付随するものとみなしています。すなわち、フロイトにおいて、性が先にきて、愛は後です。そして人間の心には、本来、強固な敵意が秘められていて、愛などによって多くの人間を結び合わせるなど、とてもできないと、フロイトは考えていました。アンソニー・ストーによれば、

 フロイトの頭には、友情のような、それ自体が価値あるようなタイプの人間関係はない。あらゆる人間関係は、「目標を禁じられた」性的関係の代理物である。フロイトが「おのれのごとく隣人を愛せ」というキリスト教の戒めを否定したのも当然だ(※16)。

 フロイトは「人間はすべての女性を征服しようとする果てしのない願望によって操られている」と見ています。野生の動物世界において、雄は雌をめぐって雄同士が戦い、勝ち抜いた強い雄が多くの雌を独占するように、人間においても、男は多くの女を征服しようと男同士が争うと言うのです。

 フロイトにおいて、愛とは「性的結合を目標にしたところの性愛」です。そこには本来の愛というものは全く見られません。そして実際、フロイト主義者たちによる『精神分析用語辞典』を見ても、そこには「愛」という言葉は見当たらず、あるのは「性器愛」という表現だけです(※17)。結局、フロイトの思想は人間の霊性を否定し、愛を性欲に還元するものであり、愛を窒息させようとするものです。フロイトの人間観は正に「性的人間」でした。それに対して、「統一思想」の観点では、性は真(まこと)の愛のためにあるのであって、愛が主体、性は対象です。したがって、「統一思想」の人間観は「愛的人間」であり、「心情的存在」です。

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※16 アンソニー・ストー『フロイト』(153)
※17 ドニ・ド・ルージュモン(Denis de Rougemont)「愛」、『愛のメタモルフォーズ』平凡社、1987(66-67)

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 次回は、「快感原則と現実原則」をお届けします。


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