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「性解放理論」を超えて(12)
心の構造②

 人類は今、神とサタンの総力戦の中に生きています。
 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 台頭する性解放理論を克服し、神の創造理想と真の家庭理想実現のための思想的覚醒を促す「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

二 フロイトを超えて

(三)心の構造②

 フロイトの言う文明社会とは、猛獣たちを檻に入れた平和な動物園のようなものです。しかし猛獣は檻(おり)から放てば元の猛獣に戻ります。結局、フロイトの見た人間は本質的に野蛮な性的動物なのです。フロイトの「人間[男]はすべての女性を征服しようとする果てしのない願望によって操られる(※13)」という言葉がそのことをよく表しています。

 フロイトの言うイドとエゴは、「統一思想」から見れば、肉心と生心に相当すると言えます。肉心は肉身に宿る本能的な心ですが、生心は霊人体に宿る心です。フロイトの言うエゴは生心に属するものですが、人間の霊性(霊人体)を認めないフロイトにとって、エゴは根拠のないものです。フロイトはイドという衝動の塊から、エゴが発達してくると考えていました。しかし、いかにしてイドからエゴが発達するのか、なぜ動物にはエゴが発達しないのか、明らかにされていません。「統一思想」において、人間の心の中で最も核心となっているのが心情、すなわち愛の衝動です。それに対して、フロイトにおいては、人間の心の核心にあるのがリビドーです。そこで両者を比較してみれば、「統一思想」の見る人間の心の構造とフロイトの見る人間の心の構造とは、重要さの順序が正に正反対になっていることが分かります。

 フロイトはエゴによってイドを抑圧せよと主張しました。フロイトにとって、性とは獣的なものであって表面化しないように抑圧すべきものでした。しかし「統一思想」から見れば、真(まこと)の愛を中心として生心と肉心が円満な授受作用を行うとき、肉心の性は聖なるものとなるのです。

▲キリスト教道徳の下で抑圧された人間

 フロイトによれば、人間はキリスト教封建道徳の下で抑圧されていました。超エゴとはキリスト教封建道徳の内在化されたものであり、その超エゴの支配の下でイドの衝動が強制的に抑圧されていたと言うのです。フロイトの言う、キリスト教道徳の下での抑圧された人間像を表示すれば、上図のようになります。

▲フロイトの人間観

▲統一思想の人間観

 フロイトの人間観の原点は「性的人間」でしたが、やがてフロイトは、超エゴによってイドを強制的に抑圧するのではなく、個人が自律的にイドを操るべきであると主張しました。かくして、フロイトの人間観は「性的人間」から「理性的人間」の装いをしたのです。けれどもフロイトにおいて、あくまでもイド(リビドー)が心の核心であり、人間は本性的に性的な存在でした。フロイトのエゴとイドから成る人間観、「統一思想」の生心と肉心から成る人間観を「統一思想の」四位(よんい)基台構造の観点から表示すれば、上のようになります。

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※13 エーリッヒ・フロム、懸田克躬(かけだ・かつみ)訳『愛するということ』紀伊國屋書店、1959(127)

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 次回は、「昇華」をお届けします。


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