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信仰と「哲学」88
希望の哲学(2)
私たちの希望とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 希望ある生き方とはどのような内容と条件を満たすものなのでしょうか。これまでの体験などを踏まえて条件を挙げてみます。

 希望があるということは、善い状況を望むことができるということですが、①足場が固められていること(風雨にさらされても動じない根が張っている状態)、②善い目標を定めることができること(人間の本性の発露である善の目標を設定できること)、③目標達成のための実行・実践力があること(本心から湧きいずる意欲を維持できること)、そして④他者と共に歩めること(自由、平等、平和を実現すること)が、必須要件です。

▲文鮮明総裁・韓鶴子総裁夫妻

 韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁は、天の父母様に「侍る」運動が起こらなければならないと語り続けておられますが、提起した四条件を心にとめながら、以下の言葉を一読してみてください。

 「真理の目的は善を成就するところにあり、そしてまた、善の本体(ほんたい)はすなわち神であられるがゆえに、この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである。自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責(かしゃく)からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには、決してその隣人を害することができないようになるのが人間だれしもが持つ共通の感情である。それゆえ、人間がその心の深みからわき出(い)づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない。したがって、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことができない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在することを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄にひかれていかなければならないという天法(てんぽう)を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。罪のない世界がすなわち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである。そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである」(下線は筆者による)

 このメッセージは文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の哲学の原点である『原理講論』の総序(33~34ページ)に記されている内容です。

 韓総裁が語られる「天の父母様に侍る」運動が、どのような人間と世界の実現を目指しているのかが分かります。
 新しい希望の哲学は、このような人間と世界を実現するための道を開くものでなければならないのです。