2021.11.15 17:00
信仰と「哲学」87
希望の哲学(1)
人間の限界
神保 房雄
「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。
韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁のメッセージに繰り返し出てくる言葉があります。それは、人間の努力の限界に関する内容です。
例を挙げれば、「今日、世界の至る所で起きている、予期できない問題はもちろん、新型コロナウイルスのパンデミックによって世界の至る所で政治的、経済的(な混乱)、宗教紛争など、到底言葉にできない、前の見えない現実が展開されています。これまでの人間の努力では限界が来ているということを、皆が感じています」(2020年11月22日、第3回「神統一世界安着のための希望前進大会」/『世界家庭』2021年1月号)などがあります。
そして韓総裁は必ず次に、神(天の父母様)を迎えなければ希望はないと訴えられるのです。
無神論者、唯物主義者、共産主義者らは生活の中に神を迎え入れようとしません。考えや行動の基準に神を置くことはないのです。また良心的な人間中心主義者は、時に神を思い、祈りにも似た心を持とうとすることもあるでしょうが、信念や生活の基準のレベルではありません。
一方、世界に広がる諸宗教があります。さまざまなレベルで多くの人々が「神」を受け入れ信じています。
キリスト教を信じ受け入れている、すなわちキリスト教の言う神を信じる人々はおよそ20億人。また、アッラーを受け入れているムスリムは11億人を超えます。そしてヒンズー教の言う神=バラモンを受け入れる人々は8億人以上いるでしょう(ウィキペディア「宗教」参照)。その他、多くの民族宗教があり、それぞれの神が信仰されているのです。
しかし世界は混乱と絶望に満ちています。
韓鶴子総裁がメッセージにおいて語られる、神を中心としなければならない人々とは、神を信じていない無神論者たちだけではなく、既存の歴史的諸宗教を信じている人々も含んでいるのです。すなわち、これまでの神と人間との在り方では限界がある。「前の見えない現実」を変えることができないとし、信仰の革命的な変化が必要であることを訴えておられるのです。
韓総裁は、全人類が、神=天の父母様に「侍る」生き方をしなければならないと述べています。上述の希望前進大会で、「今この時点で、この全ての問題を解決し、明るい未来を見ることのできるその中心に、創造主・神様に侍(はべ)る運動が起きなければならないのです。創造主は美しい地球を創造され、人間と共に地上で天国の生活を送った後、永存する世界でも人類と共に暮らそうと準備をされました。それは、創造主・神様が人類の父母であるからです」と語られています。
最も重要な言葉、既存の諸宗教にはない言葉、それが「神に侍る」という言葉です。侍るとは尊貴なる存在に「付き従っている」こと、言い換えれば「共に生活している」ということであるといわれます。
文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁は、今は「侍義」の時代、神様に侍って義とされる時代であると語りました。
全ての希望はまず、天の父母様に侍るところからスタートするということです。個人、家庭、氏族、民族、国家、南北統一、人類一家族実現の希望は、人間が天の父母様に侍ることが土台となるということなのです。
何回かに分けて、「天の父母様に侍る」ことについて考えてみます。