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統一原理Q&A 11
三位一体論について

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
 統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。

白井康友・著

(光言社・刊『統一原理Q&A み言による神の心情の再発見』より)

Q:『原理講論』の中で、「三位一体論」に関して、「このような問題が未解決であることによって、これまでキリスト教の教理と信仰生活に、少なからず混乱を引き起こしてきたのである」と書かれてあるように、明確な解答がキリスト教会では出されていないように思われます。そもそも「三位一体論」とは、キリスト教会においてどのように主張されてきた教理なのでしょうか、また、それに対して今日までどのように批判されてきたのでしょうか、そしてキリスト教会の教理を克服する内容として、「統一原理」の見解を説明してください。


A:まず、三位一体論の教理がどのようにして成立してきたのか、その歴史的経過から見てみたいと思います。そもそもキリスト教は、イエスをキリストとして崇拝することから出発した宗教ですから、二世紀ごろまでのキリスト教徒は、そのキリストの神性についてあれこれ考える余裕もなければ、その必要性も感じませんでした。

 しかし、三世紀後半に入って、哲学的訓練を受けた人たちが改宗するようになると、キリスト崇拝を哲学的に理論づける必要が生まれてきたのです。

 当然のこととして、キリスト教は一神教であることを大前提としているので、次第に、人間としてのナザレのイエスが、どうしてキリストとしてヤハウェの神性と並んで神性をもつのかという、疑問がわき起こってきたのです。この問題を、四世紀の初めに鋭く提起したのがアレクサンドリアの長老アリウスでした。

 彼は「神の本性はいかなる分割もあり得ないものであるから、キリストは神から放射されたもの、したがって神に従属するものでなければならない。キリストの本性は神聖であっても神性ではあり得ない。その本性は神の本性とは異質なものである」(半田元夫・今野園夫共著『キリスト教史』山田出版社)と主張しましたが、これは正に哲学派の代表的な意見でありました。

 これに対し、同じアレクサンドリアの司教アレクサンドロスと、のちにその主張を引き継いだアタナシウス一派は、「哲学的、論理的であろうとなかろうと、キリストは本当の神性をもち、正に神御自身と全く同質である」(前掲書)と反論しましたが、こうした意見がキリスト教の伝統的なキリスト観を示していました。

 この論争を知ったコンスタンティヌス帝は、ローマ帝国の権威の下に宗教会議を召集して解決することを考え、325年ニケアにて公会議を召集しました。会議では白熱した論議が2カ月にわたって続けられ、最終的には「父(神)と子(イエス)は同質(ホモウシオス)である」という言葉を挿入したものが、出席者数300人以上の司教の中、5人を除いた全員の賛成を得て採択されたので、アタナシウス派の勝利、アリウス派の敗北という結果になり、アタナシウス派は正統、アリウス派は異端とされて帝国からの追放が決定されたのです。


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 このようにニケアの会議で問題とされたのは、父なる神に対するイエスの人性・神性をめぐる議論でしたが、その後聖霊をどう考えるべきかという、新しい問題が提起されてきました。もし聖霊が神性をもつとすると、論理的にはキリスト教は多神教となってしまうので、この問題をめぐって様々に粉糾しました。

 そこで381年コンスタンティノープルにて、テオドシウス帝が、公会議を召集した結果、聖霊の神性が公に認められ、三位一体論の教理が確立されてきました。

▲ニケア会議

 三位一体の神を考えるにあたり、まず明確にしておかなければならないのが神の唯一性です。「神は唯一である」(テモテⅠ二・五)と記されているごとく、それは聖書の一貫した告白でもあります。

 このように、神はひとりでありながら、その中に三つの区別があるというのが三位一体論の主張です。これは三人の神がいるというのではなく、一つの神の本質の中に父と子と聖霊として(各々は完全なる神として)永遠の区別があるということです。ここにおいて三つに区別される人格を特に他と区別して位格(ペルソナ)と呼んでいるために、神の三位格として説明されています。

 また、これら三つの位格の関連を示す言葉として、「出生」「発出」という言葉があります。出生とは父の位格から子の位格が生み出される活動をいい、発出とは父の位格と子の位格から聖霊の位格が出てくることで、子の出生と区別されて特に発出という言葉が用いられます。

 以上の内容に基づいて三位一体の信仰を簡潔にまとめてみると、アタナシウス信条の中で「われらは唯一の神を三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分離することなく」(前掲書『キリスト教史』99頁)と表現されています。

 しかし、位格という言葉に置き換えたとしても、三つの人格をもつ存在を一人と見るには、どうしても理性において限界があると言わざるを得ません。そこでキリスト教会においては「X=3Xという方程式は、数学的には成立するはずがない。けれどもXの性格が神秘性であり、信仰によって理解されるべきである」(前掲書199頁)と説明され、「われわれはこの三位一体の教理が偉大な神秘であることを認める」(ヘンリー・シーセン著『組織神学』聖書図書刊行会、224頁)と述べられています。

 ゆえに「三位一体の教理は、自然神学の真理ではなく、啓示神学の真理である。ストロングは『理性はわれわれに神の一体性を示すが、啓示のみが神の三位一体を示してくれる』」(前掲書222頁)と主張しています。

 それでは「三位一体論」に関して、今日までどのように批判されてきたかを述べてみたいと思います。

 第一に、「『三位一体』という言葉は、聖書には現われてこない」(ハロルド・リンゼル、チャールズ・ウッドブリッジ共著『聖書教理ハンドブック』いのちのことば社、47頁)とあるごとく、真に聖書的なものではないということです。

 ギリシャ語の表現としてはアンテオケのテオフィルス(181年没)によって、ラテン語の表現としてはテルトリアヌス(220年没)によって、初めて使われたとされており、それ以前には、どのクリスチャンもこの言葉を一度も使ったことがありませんでした。

 よく聖書的根拠として出される「父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」(マタイ二八・一九)は、歴史上のイエスの言葉であるとは考えられず、イエスの死後、初代教会によって付加されたものであることを示しています。

 「同じように、第四福音書には父と子と聖霊という言い方が多く見られるが、それらはイエスが実際に話した言葉ではなく、福音書記者が生きていた使徒以後の時代の神学的見方を示すものである」(金永雲著『統一神学』、288頁)といわれています。

 第二に、それはユダヤ・キリスト教の信仰と古代のギリシャ哲学を融合したものを代表しており、第三に、それはクリスチャンたちを一つの神、一つの主のもとに一体化させるよりも、結果的にはむしろ彼らを分裂させてきました。三位一体論をめぐる論争の結果、ニケアの宗教会議以降はアタナシウス派とアリウス派、ネストリウス派とキリスト単性論派、カルケドン派と非カルケドン派に分裂してしまったのです。

 そこで従来の三位一体論に対する代案として、『統一原理』による見解は、結論的には、統一原理は地上に天国を実現するための方法として三位一体論を強調しており、それを創造本然、堕落、復帰という観点から明確に説明しています。

 本来創造原理によれば、神の二性性相から実体的に分立された対象として創造されたアダムとエバが個性完成して、神の祝福の中で結婚して人類の真の父母となり、神を中心に授受作用をして合性一体化する時に、この形を実体的三位一体と表現します。

 この時に神を中心とした四位基台が造成され、彼らの子孫も神を中心とした四位基台を造成し、神を中心とした善の夫婦となって各々三位一体を形成し、神中心の家庭、社会、国家、世界を造り、その延長上に、神の三大祝福完成による地上天国が実現したはずでありました。


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 しかしアダムとエバが堕落したことにより、サタンを中心としてアダムとエバが不倫なる愛の関係で一体化してしまい(これは、サタンを中心とする三位一体とも表現できます)、サタンを中心とする四位基台ができてしまいました。ゆえに堕落後のサタンの血統をもつ後孫も、やはりサタンを中心とする三位一体を形成し、今日まで地上地獄をつくってきてしまいました。

 それゆえ神は、イエスと聖霊を後(のち)のアダムと後(のち)のエバとして立て、お互いに授受作用して合性一体化させることにより、神を中心とする四位基台をつくらせようとされました。この時、イエスと聖霊は、神を中心として完全に一体化するわけです。これこそ、今日までキリスト教で言われてきた三位一体の本当の内容なのです。

 キリスト教神学では、イエスの神性を強調するあまり神との区別がつかず、イエスを神ご自身として扱ってしまい、また、聖霊までも神として考えてしまったために、理性的には到底理解できない三位一体論を展開してしまいました。それゆえ、「神秘」「啓示」という表現で無理に納得させてきた感のあることは否めません。

 『統一原理』によれば、イエスが十字架にかかることによって、地上での使命を完遂できなかったために、イエスと聖霊は、神を中心とする霊的三位一体をつくることによって霊的真の父母の使命を果たしただけで終わってしまったと見ています。

 したがって、イエスと聖霊は、霊的新生(重生)の使命だけをなさっているので、信徒たちもやはり霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ霊的子女の立場にとどまっている状態です。このようにして神の国の中核としての三位一体を、霊的にのみ回復したのが父と子と聖霊の三位一体であり、そこから神の国の霊的支配が開始されたということができます。

 ゆえに、最終的には、イエスは再臨されて真の母を復帰し、霊肉共の真の父母として完全に一体となって、神を中心とする実体的三位一体をつくり、堕落人間を霊肉共に新生させ、彼らの原罪を清算して神を中心とする実体的三位一体をつくらせるのです。その時初めて、アダムとエバを中心として成そうとされた、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのです。

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 次回は、「父母復帰のための蕩減条件とは」をお届けします。