2021.10.31 22:00
統一原理Q&A 9
霊的救いと肉的救いの違い
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。
白井康友・著
Q:イエスの十字架による贖いは霊的救いのみであり、最終的にはイエスの再臨による「肉的救い」が必要であると聞いていますが、この「霊的救い」と「肉的救い」はそれぞれどのような内容を意味しており、また、それらの根本的相違点について説明してください。
A:言葉上からだけで判断しますと、霊的救いとは霊人体が救われることであり、肉的救いとは肉身が救われることのように考えられがちですが、それは決して正しい解釈とはいえません。
まず、霊的救いとは何かということから考えてみると、「原理講論」に「彼(イエス)は十字架の血の贖罪で、復活の勝利的な基台を造成することによって、霊的救いの基台を完成された」(187頁)と記されてあるごとく、イエスは復活されて、四方に散らばっていた弟子たちを集めて十二弟子の数を整え、まず「霊的な実体基台」を造成しました。その基台の上にイエスは、霊的洗礼ヨハネ使命者の立場から、霊的な真の父の立場に立ち、霊的真の母である聖霊を復帰して一つとなって摂理されることにより、信徒たちを霊的に結び、霊的に新生させる摂理をされました。霊的救いとは言葉を換えていえば、前述の霊的新生の摂理のことを意味しています。
今日までの2000年のキリスト教歴史の中で、新約のみ言(福音)を信じた信徒たちの霊人体は、生命体級の霊人体を完成して、肉身を脱いだあとには楽園に行って生きるようになります。楽園とは復活したイエスの勝利により、サタンの霊的讒訴条件が清算されているので、霊的面におけるサタン不可侵圏が築かれているのです。霊的新生を受けたキリスト教信徒たちの実感としては、「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリントⅡ 五・一七)と聖句にあるごとく、新しい霊的自我に目覚め、古き自己との180度の転換であり、その喜びと感動の世界は、彼らをしてローマ帝国の残虐無道の迫害を乗り越えさせ、殉教をも恐れないほどの強烈な信仰の力を与えてきました。
しかし、あくまで霊的救いとは、完全に救われたという意味ではありません。心情の因縁を中心として神と人間との関係を見てみると、人間が旧約時代における神の僕の立場より、新約時代における神の養子の立場(ロマ八・二三)にまで復帰され、引き上げられたという意味であり、すなわち、僕の段階と比較して神の愛の圏内により近付くことができたという意味における喜びであり、救いなのです。
それゆえ、『原理講論』に、「いくら信仰の篤いキリスト教信徒でも肉的に継承されてきた原罪を清算することができないままでいるので、サタンの血統を離脱できなかったという点においては、旧約時代の信徒たちと何ら異なるところがない」(431頁)とあるように、信徒たちはその信仰が強くなればなるほど、罪に対して熾烈な戦いをするようになります。
ゆえに、イエスは十字架で清算できなかった原罪を贖って、肉的救いを完成し、霊肉共の救いの目的を完遂なさるために、地上に再臨されなければならなくなったのです。肉的救いとは、再臨主による血統的原罪の完全なる清算であり、神の直系の子女として、養子段階より実子段階まで復帰されることを意味しています。
さらに愛という観点から、その違いを調べてみることにしましょう。一つの分かりやすい題材として、アンドレ・ジイドの「狭き門」を取り上げてみます。この小説の中では、二つの悩める魂の対立が見られます。アリサとの恋の成就においてのみ幸福を見いだすことを信じかつ願うジェロームと、そのジェロームを愛しながらも、彼との恋を捨ててでもひたすら「狭き門」に入ろうとするアリサの内面の世界が描かれていますが、特に次の引用文が、この小説のテーマとなっているのではないかと思われます。
「主よ、ジエロームとわたくしと二人で、たがいに助けあいながら、二人ともあなたさまの方へ近づいていくことができますように……。ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです。二人ならんで通れないほど狭いのです」(アンドレ・ジイド『狭き門』新潮社、197頁)。「力を尽くして狭き門より入れ」(ルカ一三・二四)の聖句を用いながら、ジイドはキリスト教における愛の限界を鋭く指摘しています。
すなわちアリサは、ジェロームに対する人間的、横的愛の世界と、神に対する徳の世界との熾烈な葛藤の世界を、「悲しいかな、徳というものはただ愛に対する抵抗だとしか思われなくなる」(前掲書194頁)と表現しています。そして神への徳(信仰)を純粋に、いちずに貫こうとすればするほど、横的愛の関係を否定しなければならず、正に一人でしか行くことのできない狭い道であるというのです。
聖書の中で、「だから相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい」(コリントⅠ 七・三八)とパウロも語っているごとく、聖書の教えに忠実に従おうとすればするほど、生涯独身生活を貫かざるを得なくなり、これこそがキリスト教における霊的救いの限界なのです。
再臨主による肉的救いとは何かといえば、初めて人間が神から第二祝福(結婚)が許されて、夫婦共に神の前に立つことができ、神の愛を中心とした理想家庭の建設に向かって出発する資格が与えられたということです。
アダムとエバは、不倫なる愛の関係をもって二人で堕落したので、原罪の清算は二人が一体となって越えていかなければなりません。神不在の中で勝手な結婚をして堕落したので、神を中心とした結婚という形を通して、清算され救われていくのです。
このように、霊的救いは、個人的次元の救いであるのに比べ、肉的救いとは夫婦間の救いであると表現することもできます。
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次回は、「イエスの十字架による霊的新生について」をお届けします。