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統一原理Q&A 8
み言の審判とは

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
 統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。

白井康友・著

(光言社・刊『統一原理Q&A み言による神の心情の再発見』より)

Q:終末の徴候として「火の審判」があり、それは結論的には「み言の審判」を意味していると聞きましたが、どのような理由からそう言えるのでしょうか。また、終末において、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのでしょうか。詳しく説明してください。


A:まず終末の徴候を示す聖句として、ペテロの第二の手紙三章一二節には「その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と終末には火の審判があることが記されています。その解明を示唆する聖句として、ヤコブの手紙三章六節には「舌は火である」、エレミヤ書五章一四節には「わたしの言葉を火とし」とあり、結論的にまとめてみると、火の審判は舌の審判であり、すなわちそれは「み言の審判」であることが分かります。

 それでは質問の「み言の審判」とは何かを考えてみましょう。ヨハネによる福音書一章三節にあるように、人間は神のみ言(真理)の実体として創造されたことが分かります。しかし彼らは「取って食べてはならない」(創世記二・一七)というみ言を守ることができずに堕落してしまい、み言の目的を達成することができませんでした。それゆえに神は、預言者、義人を通してみ言を与えながら、再びみ言によって堕落人間を再創造なさることにより、み旨の目的を達成しようとされるわけです。

 さて、終末期に降臨されるメシヤは、み言の完成実体(ヨハネ一・一四)であるため、み言の審判の基準となります。ちょうど、闇に光を当てるとすべてが明らかになるごとく、堕落人間の心にメシヤのみ言の光が当てられると内面的な罪が明確化され、み言の示す基準からずれている分だけ、自らの良心の阿責、苦痛となって審判を受けていきます。

▲文鮮明先生ご夫妻

 それでは、「み言の審判」を越えていくためにはどうすればいいかを考えてみましょう。文先生が「今までサタン世界でもっていたサタン的観念、サタン世界において信じていたすべての習慣までも全部一掃されなければなりません。言い換えれば、絶対的な基準に該当することのできるみ言を中心とした伝統を立てねばならない」(「全面的進撃を継続しよう」196911)と語っておられるごとく、み言の伝統を立てていくことが重要です。そのためには「すべての思考方式、そのすべての基準がみ言を中心として一体化された伝統」(「前掲の御言」)を打ち立てていくことが必要です。

 さらに文先生のみ言によりますと、「み言の審判」の次に、どれくらいみ言を実践して自らの人格として実体化したかという「人格の審判」、その上に、どれくらい神を中心とした真実の愛を自らの内面に復帰したかという「心情の審判」と、三大審判を堕落人間は通過していかなければならないと言われます。この三大審判を越えた時に、人格完成者として確立したことを神より公認されるのです。

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 次回は、「霊的救いと肉的救いの違い」をお届けします。