2021.10.17 22:00
統一原理Q&A 7
非原理的愛の力が原理の力より強い理由
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。
白井康友・著
Q:『原理講論』には「原理の力」という表現がよく使われていますが、具体的にはどのような力をいうのでしょうか。また、非原理的な愛の力が原理の力より強いために、人間始祖は堕落したといわれる内容について、さらに詳しく説明してください。
A:まず原理の力は具体的にいかなるものかということを明確にするために、人間の心の問題から考えてみたいと思います。心には「知」「情」「意」という三つの機能があり、例えば料理(カレーライス)を作ろうとする場合、まず最初に「カレーを食べたい」という動機としての情が高まり、「どんな材料を使って作ろうか」という案内役としての知的な働きが加わり、情と知が合成一体化して「カレーを作ろう」といった推進力としての意志が働いて行動が生じていくわけです。したがって、心とは具体的に意志として表れてくるので、結局「自由意志」とはあくまでも心の発露にほかなりません。
しかし、創造本然の人間においては、み言(原理)に基づいた知的判断をするので、原理を離れて自由意志が働くことはあり得ず、自由意志は善のみを指向します。このことを「本心の自由(意志)」と、表現すると、本心の自由(意志)が指向する力は原理軌道に沿って働こうとするので、この力こそが原理の力と見ることができます。
それゆえ、原理の力それ自体が人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはあり得ません。それは、仮に原理軌道をレールとして、原理の力を汽車の走る力に例えてみると、レールや機関車に故障がない限り、汽車が自らレール上から脱線するということはあり得ないことと同じです。
このように、神から創造された人間は個体、すなわち単独では絶対に堕落することはないのです。しかし創造目的から見ると、個体にある本心の自由(意志)の力よりも強いものが存在しており、正にそれが、ある個体と個体とが情のレベルにおいて授受作用した時に生ずる愛の力です。先ほどの例でも分かるように、汽車も自らの走る力よりも強いある別の力が、それと異なる方向から働いてきた場合には、脱線するより外はありません。
それと同じように人間も、それ自身を成長させる原理の力よりも強いある力が、それと異なる目的をもってぶつかってくれば、堕落するようになるのです。この原理の力よりも強い力が愛の力なのです。それゆえに、未完成期における人間は、その非原理的な愛の力のために堕落する可能性があったというのです。
それでは神はなぜ、愛の力を原理の力以上の大きな力を持つものとして創造されたのでしょうか。まず人間の側からその理由を考えてみると、人間は三対象の愛を体恤することによって、神が与えた創造目的を成就することができます。創造目的(創造理想)とは、人間が到達すべき最高段階ですから、そこに至る力があるとすれば、最高の力でなければなりません。それは愛の力によってのみ可能ですから、必然的に愛は人間にとって最高の力という結論になり、ゆえに、愛は人間にとって、幸福と生命の源泉であるといえるのです。
また、神の側から見ると、神は原理によって創造した人間を最終的に愛によって主管されるため、愛が愛としての存在を確立し、正に愛そのものとなるためには、どうしても原理の力以上に強くなければならないわけです。
このように、まだ未完成期において、神の直接的な愛の主管を受けることができずにいたアダムとエバが、もし天使長の相対的立場に立つようになれば、目的を異にするその非原理的な愛の力によって、堕落する可能性があったので、神は人間に「信仰のための戒め」を与えたのです。人間は知によって、戒め(み言)の内容を判断し、意志としての決断力、信仰の力をもって、天使の誘惑の言葉に相対しなかったならば、天使との非原理的愛の力は発動し得ず、人間(エバ)は決して堕落するはずがなかったのです。
しかし実際には、エバが「神の戒め(み言)」の代わりに「天使長の誘惑の言葉」を自己の選択性、決断性によって受け入れてしまったために、彼女は知的に惑わされ、心情的に混沌となってしまいました。この時彼女は、原理的責任と実績を追求する本心の自由(意志)によって生ずる不安と恐怖心を覚えたのですが、本心の自由(意志)が指向する力よりも強い天使との非原理的な愛の力によって、その自由が拘束され発動できずに堕落線を越えてしまったのです。
このようにエバは、自由意志によって天使長と授受し、堕落線まで引っ張られていってしまったわけですが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのです。聖書の中で「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ八・三四)とイエスが語られているごとく、正に人間は堕落によって真の自由を失ってしまったのです。
それでは、神が人間始祖に「食べるべからず」と言われた「信仰のための戒め」は、いつまで必要であったのかを考えてみましょう。愛を中心として見る時、神の第二祝福完成は、アダムとエバが神の愛を中心として夫婦となり、その子女を生み殖やすことによって、神の愛による直接的な主管を受けることをいいます。個性を完成した人間は宇宙において最高存在であり、そのような個性完成した男女が夫婦となって、一体化していく夫婦の愛の力は、宇宙において最高の力であり、いかなるものも、いかなる力も、この絶対的な夫婦の愛(原理的愛の力)を断ち切ることができないために、彼らは決して堕落するはずがありませんでした。まして、人間よりも一段階低い次元に創造されている天使長の愛の力などでは、到底、神を中心とした彼ら夫婦の愛を断ち切ることはできなかったはずです。ゆえに、神の第二祝福を完成した夫婦の位置こそが、神の臨在と安息の中心位置となるのです。したがって、彼らの情が完全に成長しきるまでの、未完成期にある場合に限ってのみ、「信仰のための戒め」は必要であったのです。
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次回は、「み言の審判とは」をお届けします。