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統一原理Q&A 6
罪と堕落性の根本的な違い

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「統一原理Q&A」を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。
 統一原理に対する著者の分かりやすい解説がコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。

白井康友・著

(光言社・刊『統一原理Q&A み言による神の心情の再発見』より)

Q:堕落論において、「人間堕落の結果」の項目で語られている「罪」と「堕落性」について、非常に似た概念のように感じますが、どのような関連があるのでしょうか、詳しく説明してください。


A:まず罪とは何かを考えてみましょう。聖書における罪という語のもつ意味は、アーオーン(正道から逸脱すること)、ハマルティア(目標からずれること)等であり、キリスト教の一般的見解として『大教理問答』によりますと、「罪とは理性的被造物(人間)への規則として与えられた神の律法をそれがどの律法であれ、とにかく、守らなかったり、侵犯したりすることである」(「二四問の答」)(ヘンリー・シーセン『組織神学』聖書図書刊行会、399頁)と定義されています。

 これは、まさしく律法を基準として罪の問題を見ているわけですが、ここで問題になるのは、神からはっきりと律法を明示されていながら、なぜ人間は律法を犯してしまうのかということです。その根本的原因として、統一原理では明確に、「罪とはサタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになること」(『原理講論」121頁)と説明されているごとく、罪とはサタンの存在と人間の側の立てる「条件」が大きな要因になっており、人間がサタンの側に条件を奪われた時に、結果として天法に違反し、罪を犯してしまうことになります。

 次に堕落性とは何かを考えてみましょう。天使が神に反逆してエバと血縁関係を結んだ時に、偶発的に生じた根本的性稟を堕落性本性として説明していますが、その堕落性本性が原因となって起こる、具体的に私たち人間に生ずる悪なる思い、偏った心の傾向性のことを堕落性と表現します。それはサタン的な動機を中心として生活してきた一種の癖であり、長い期間染みついた悪なる性質です。

 ここで重要な相違点は、堕落性の段階では決して罪ではないということです。しかし、自己の堕落性と戦わずにそのままの心の傾向性で生活していると、次第にサタンに条件を奪われ、最終的には天法を犯して罪に陥ってしまいます。ゆえに堕落性とは、天法に触れさせるところまで引っ張る性質であるとも表現できます。

 例えば、「憎しみを引き起こす性質」は堕落性の段階ですが、その思いを断ち切る戦いをせずに次第に育ててしまい、明確に一人の人を「憎む」時には、その動機にサタンが相対基準を合わせて授受してくるので、罪となってしまうのです。

 さらに罪の贖い(贖罪)の観点から相違点を考えてみましょう。罪には原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪の4種類があり、すべての罪は原罪に起因しています。そして「原罪は子々孫々に遺伝されてきた」(『原理講論』104頁)と記されていますが、この「原罪が遺伝する」ということは、決して血液や遺伝子を通じて、何か物質的なものが代々受け継がれていくのではなく、血統的因縁性(連帯性)をもって伝えられるということなのです。

▲失楽園のアダムとエバ(マサッチオ)

 人類は血統的な有機的一体性を有しているがゆえに、その血統的つながり(血縁)を条件(因縁)として、法廷論的に罪の讒訴が後孫に及ぶということであり、生物学的要素を媒介(条件)とした讒訴条件の伝播であるということです。このような意味で、ローマ人への手紙五章一二節には「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり……こうして、すべての人が罪を犯した」と記録されているのです。

 天的法廷を想定すると、神は裁判官の立場であり、メシヤは弁護士の立場、そしてサタンは検事の立場で絶えず人間の犯罪を神の前に訴えているがゆえに、聖書の中ではサタンのことを「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」(黙示録一二・一〇)と表現しています。

 このような原罪の遺伝とは、法廷論的な讒訴圏の伝播なので、それゆえにエデンの園における天使長と、アダム・エバとの間における原罪の生じた経路と反対の経路を通過して、原罪を清算できる蕩減条件が天的法廷において成立すれば、罪悪の血統の中からでも無原罪のメシヤが誕生できる可能性があるし(マタイによる福音書の系図によれば、イエスの血統的先祖には四人の淫婦がいる)、同様の原理によって、私たち原罪をもった堕落人間も、肉の父母の血統を受けていながらも、メシヤの勝利された権能により、サタン血統圏より神の血統圏へと血統転換され、その原罪は完全に清算されて、無原罪の立場に立ち得るのです。

 しかし、堕落性および堕落性の遺伝は、生物学的遺伝と何らかの意味で深いかかわりをもっていると思われるので(形状的遺伝ではなく、霊的、精神的性質の遺伝のこと)、メシヤによって原罪は完全に清算されたとしても、腐敗した性質としての堕落性は依然として自分の中に残っているのです。

 このように原罪の清算は、メシヤの権能によって(祝福を通して)なされるわけですが、堕落性は人間自身の責任として、自分の努力で解決していかなければなりません。

 信仰生活は、日々自己の堕落性(不平不満・批判・憎しみ等の思い)と戦い、「すべての人に対して寛容であり」「すべての事について感謝(甘受)しなさい」(テサロニケ五・一四〜一八)と記されているような生活姿勢を貫き、堕落性が、罪を芽生えさせないように努力していくことが大切な課題であります。

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 次回は、「非原理的愛の力が原理の力より強い理由」をお届けします。