2021.10.29 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(23)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
1 牧会
伝道
伝道する時は、まず相手の話をよく聞いてあげなければなりません。すると、「同じ年ごろなのに、あの人と一緒にいたい、付き合いたい」と、不思議な心情になります。心配してあげれば、心の底を率直に打ち明けるようになるのです。同じ年ごろであっても親の心で尽くすことができれば、相手に感銘を与えて、多くの生命を復帰することができるのです。だから、大勢と付き合うよりも、一人一人個人的に付き合うのが一番いいのです。
大勢と付き合うのは天使長の使命であって、個人と付き合うのは親子の関係です。今は親子の時代だから、ラッパを吹き鳴らす時代は過ぎ去っているのです。ラッパを吹き鳴らすのは、洗礼ヨハネの使命に近いのです。
メシヤの時代は、親子の関係だから、子女としての使命は、一人で付き合いながら、人間を創造していかなくてはならないのです。大衆を取り扱っては、生まれ変わらせることはできません。親の心で付き合えば、成功します。そうでない場合が多いのです。同じ年輩で付き合うとき、同志と感じてしまうからいけないのです。憐(あわ)れみの情が、自然とわいてこなくてはならないのです。
祈り
生活を立体的に取り扱わなければなりません。自分を自分として取り扱わないのが、祈る人の姿勢です。だから、何を取り扱うにも、祈りの情を基台としてやるのです。親の心というものが祈りです。自分が他人と付き合いながら、神の立場で心配しながら見るのは、蕩減(とうげん)の中心者として、情的に神の仲保者として立っているからです。その者が祈りの実体になっているのです。
神と関係なく考える場合には、何か仕事に就いても、蕩減と関係がなくなってしまいます。また、祈りと関係がなくなってしまうのです。
祈って、私が神との関係を結んで仕事に就くときに、情的にその感情でもって生活しなくてはならないのです。祈りというのは、時間をかけてするだけが祈りではなく、結局、その祈りを生活化しているかが問題なのです。
祈りでの決意が持続しなくてはなりません。祈りで決意しても、それを実行しなければ、癖になってしまいます。一般の既成教会は、癖になってしまっているのです。高い目標を掲げて祈っても、実際の生活では実行しない。だから儀式になってしまうのです。
気持ちが悪い、しゃくにさわる、そういった感情が神のものか、自分のものかを反省してみるのです。祈った者に責任があるのです。人にいじめられた時に、神に申し訳ない、そういった気持ちが出てくるのです。それは、長い間苦労の中で、情的にみ旨のために苦労した経験があるから、いじめられても、自分の体面とか自分のことは考えません。イエス様がそうです。十字架につけられながら、天の父を心配したり、大衆を心配したりしているのです。
私たちも祈りによる決意をもって生活に飛び込んで、それを持続するには闘いがありますが、これを奪われてはならないのです。環境に奪われてしまいがちなのです。過ぎ去ってしまったあと、自分が間違ったことに気がつく。
基準がなければ、私たちは自分というものが分からなくなってしまうのです。だから、主体者を立てるのです。自分と主体者。この自分はだれのものか、そう考えることによって、自分の位置というものが決まってくるのです。
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次回は、「永遠性のある基盤をつくる」をお届けします。