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心情開拓
心霊を育てる生活原則(18)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

1 牧会

▲李耀翰先生

原罪と自犯罪

 自分がサタンの息子だと聞いた時に、私たちはどの程度胸が痛かったでしょうか。「原理」によって自分の位置を発見したあとで、自分自身が誤ったのを恥ずかしがるのと、血統的問題を恥じるのと、相当差があるのです。

 私たちは、自分が失敗したのは重要に思うのですが、歴史的なものは、「だれだって同じではないか」というような腹で、平気でいるのです。だから、堕落論を話しても、原罪を分かったあとの自分の苦しみを知るよりも、自分自身が犯した罪を考えて苦しむ人のほうが多いのです。

 本当の良心的な人だったら、自分の原罪が分かった時の自分の立場を、よほどの痛みをもって苦しまなくてはいけないのに、堕落した人間は原罪という問題に対して全く平気なのです。だから、信仰しながら自犯罪を犯すことがあるのです。そういう人は、原罪というものを恐ろしく思わないからです。

 自犯罪を犯すということは、自分の身にもう一度原罪の血統を流したという条件になってしまうのです。しかし、不幸にしてそれを犯してしまった人にどういうふうに指導するかというと、原理的に解決してしまわないのです。もしそうすれば、「私はもう蕩減(とうげん)する道がない。原罪もこんなに重大なのに、自分自身がまた罪を犯したから、もう滅びだ」と落胆してしまいます。だから、率直に原理的に説明できないのです。指導者はその人のために原理的なことを知っていなくてはならないけれど、自分が知っているとお説明できないのです。その人を救うのが目的だからです。

 その人のほうからすれば、質問しに来たのは、自分の犯罪を許してほしいからであり、「犯した以前の立場で付き合ってくれたらいいな」という希望をもっているのです。その人の、そういう動機を取り上げてやらなくてはなりません。私はどうしたらいいのかということは、自分の心が知っているのです。知っていながらなぜ聞くのかというと、「許してほしい、救ってほしい」という内面の願いがあるわけです。だから、原理原則をもってしては説明できないのです。

 そういう場合には、「あなたの犯したのは、あなたがしたのではない」と慰めてやるのです。要するに、祖先から流れてきた原罪が現れただけであって、罪を犯していない自分だって、そういう人間だということを告白するのです。「私の血も、分析してみれば結局同じだ」と言って慰めてあげながら、その人に希望を与え、勇気を得させるような方向に向けて説明する方法しかないのです。

 神様でも、神は愛だから私たちの罪を忘れてやるという約束で、人間を呼ぶのですが、本当は絶対忘れられないのです。最後には、全部蕩減しなければならないのです。黙示録にあるように、「自分の着物を洗ったか」と検査されます。それなのに、初め呼ぶ時には、「忘れてやるから来い」と言って、人に希望を与えるのです。

 原理的にいえば、罪を犯さなくても、その人の歴史的な条件を子女の立場から見れば、原罪と認められる場合もあるのです。

 例えば、結婚した人としない人とでは、差があるのです。結婚した人は、旧約時代を蕩減する人物です。婚約していて堕落論を聞いてから別れた人は、新約時代を蕩減する人物として祝福されるのです。また、全然異性との関係を結んだことのない人は、これからの歴史をつくっていく主人となるのです。そういう血統的な、血縁的な差があるのです。いくら信仰が篤い人でも、どうしようもありません。

 例えば、一度結婚した人は、旧約時代の子女という立場で、霊人たちを代表して、旧約時代の歴史において結婚した人の全部の責任をもって蕩減しなくてはならない供え物として選ばれたのです。

 だから、自犯罪を犯した人は、一つの時代をショートしてしまったのです。成約時代の先祖となる望みが消えて、新約時代のパラダイスにいる大勢の霊人の代わりに選ばれた立場で、もっともっと蕩減を負わなければならない条件を自分自身がつくったことになるのです。まっすぐな道に、自分自身で丘をつくってしまったのです。

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 次回は、「心を土台として神がやる」をお届けします。


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