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預言 31
絶叫

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

31 絶叫

 人生とは分からないものである。

 ゴルバチョフを狙っていた時は、どんなに入ろうとしても入ることのできなかったクレムリンに、智敏(ジミン)は誰にも阻止されず、入れることになった。

 クレムリンに向かう人々は、迎賓館の玄関に待機していた高級リムジンとバスに乗り込んだ。

 リムジンには文(ムン)総裁夫妻が乗り、バスには28名の各国元首脳らが乗った。智敏の席も、バスに準備されていた。

 バスがクレムリンに入ると、待機していた警護官と秘書官が横並びになり、一人ひとりを迎え入れた。

 文総裁夫妻を先頭に、一行は敬礼を受けながら玄関を通り抜け、広い会議室に案内された。

 「ジミー、ここに座ってくださいね」

 親しみのある温かい声。韓鶴子(ハン・ハクチャ)女史だった。

 一行全員が席に着くや、ゴルバチョフが軽やかな笑みを浮かべながら入ってきた。

 あれほど必死に撃とうとしていたゴルバチョフの印象は、悪魔の帝国に君臨する独裁者というには程遠いものだった。

 テレビや新聞で目にしてきたよりも、ずっと温和で屈託がない。まるでどこかの大学教授のような表情で現れたゴルバチョフは、笑顔で、一行を代表する文総裁を迎えた。

 文総裁は書記長に、写真で見るよりもずっとハンサムで、若く見えると述べた後、持参したプレゼントの花瓶を手渡した。

 「これは私の祖国である韓国で、白の大理石に龍を彫り込んだものです。白は韓民族の象徴で、純潔と潔白を意味しています。石は永遠不変を、龍は富貴と権勢、栄光を象徴しています」

 書記長は花瓶を手にして文総裁夫妻と記念写真を撮り、ジョークを飛ばした。

 「ハハ、この花瓶さえ大事に持っていれば、私の人生は安泰ですね」

 挨拶を終えると、書記長がマイクを握った。

 「私、ゴルバチョフは皆さんを歓迎いたします。しかし、ソビエトが皆さんを歓迎するかどうかは分かりません」

 どっと笑いが起こった。

 続けて、ゴルバチョフは準備しておいた演説を始めた。

 盛大な拍手を受けながら、彼は自らの象徴ともいえるペレストロイカとグラスノスチについて、丁寧に説明した。

 「ソビエトは、国民のためという大義名分のもと、国民を排除してきました。国民の権利と利益、生存をすべて委ねられているにもかかわらず、国民を信じてこなかったのです。スターリン主義は誰も望まない怪物に変わり、我々は実体のない敵を誕生させてしまいました。私はソ連の書記長としてその事実を認め、皆さんと共に前進しようと思います」

 驚いたことに、ソ連の書記長ゴルバチョフは、ソ連の反省を何度も強調した。

 彼の演説には拍手が途切れることなく送られた。なるほど、彼は世間の評判にたがわぬ素晴らしい人物だった。

 ソ連の開放と東西の和解を叫ぶ、平和の使徒を彷彿(ほうふつ)とさせた。
 「彼は政治局員の中から、投票で選出されたの。でも実質的な権力は、その時反対した人々にある。彼らが軍部とKGBを掌握して、ゴルバチョフを脅かし続けているわ。華やかに見えるけれど、実際は孤独な改革者ということよ」

 韓女史は、ソ連権力の内実とゴルバチョフの苦悩をそれとなく教えてくれた。


 第1部のスケジュールが終わると、書記長はクレムリン宮殿の4階にある自分の執務室に文総裁と韓女史、頂上会議の事務総長マイケル・ウォルシュと通訳のピーター・パク、そして智敏を案内した。

 智敏は執務室に移動しながら、荒(すさ)んだ笑いを浮かべた。

 あれほどに熱望していた時は、はるか宇宙の彼方(かなた)に見えたその一点が、もはやここにいるべき理由も分からない今になって、目の前に現れるとは。

 全世界で最も強大な力を持つ指導者といわれるゴルバチョフは、思いのほか素朴に笑いながら、一人ひとりの手を握り、席に座るよう勧めた。

 文総裁は満面の笑みを浮かべ、快活な表情でうなずいたが、席に着くや、その親しみやすく柔和な雰囲気をさっと消し去った。

 まだ頬に笑みを残していたゴルバチョフを真正面から見据え、文総裁は鋭く言った。

 「書記長! 神を信じるべきです!」

 ピーター・パクは仰天した。

 まさか。

 宗教を絶対悪とする共産党、その頂点に立つ書記長に向かって、神を信じろとは。

 ピーター・パクは震え上がったが、文総裁の言葉をそのまま通訳するしかなかった。

 彼は政治局員、「プラウダ」編集長、秘書室長、速記者、通訳官らの顔色をうかがいながら、できるだけ柔らかい口調で文総裁の言葉を伝えた。

 「書記長は必ず保守反動勢力の反撃を受けます。私は書記長を助けるためにここに来ました。28名の元大統領と元首相を引き連れてきたのも、書記長を保護するためです。先ほどの演説にもあったように、共産主義は悲劇です。書記長は改革と開放さえ行えば、それでうまくいくとお考えのようですが、それだけではだめなのです。愛が必要です。そして、神を信じなければなりません」

 書記長は何も言わなかったが、わずかにうなずいているようにも見えた。

 ピーター・パクは驚かずにはいられなかった。

 かっとして怒鳴りつけ、一行を追い出すのではないかと思われたが、意外なことにゴルバチョフは、静かに文総裁の言葉に耳を傾けていた。

 文総裁は、いつの間にかまた、いつもの柔らかい表情に戻っていた。出し抜けに文総裁からの洗礼を浴びたにもかかわらず、ゴルバチョフの表情も温和そのものだった。

 文総裁は何事もなかったかのような穏やかな表情で、最後に一言付け加えた。

 「ソ連の青年3,000名をアメリカに招待し、彼らが書記長の助けになれるように準備させましょう。彼らに民主主義と自由主義の価値を伝え、祖国の危機に立ち向かえるよう教育するのです」

 「KGBに対抗する、『ゴルビーの軍隊』をつくってやろうとおっしゃるのですね」

 「そのとおりです」

 この後の二人の対談内容は、ゴルバチョフの改革と開放に対する世界の評価、ソ連軍部の動向、市場経済への転換など、さほど目新しいものはなかった。

 いつしか智敏はうなだれて、耳を塞いでいた。

 飛び交う話はただの雑音にしか聞こえなかった。彼は懐からメモを取り出して、ソフィアの筆跡を指でなぞった。

 智敏の行動を注意深くうかがっていたピーター・パクが、何度かこっそり脇をつついたが、智敏は全くおかまいなしに、ソフィアのメモだけを見つめていた。

 そんな気配を察したのか、ゴルバチョフが視線を智敏に向け、声をかけた。

 「チョイといいましたか?」

 智敏は答えなかった。ゴルバチョフは肩をすくめてみせた。

 「緊張しているようですね。楽にしていいですよ」

 秘書と警護室長など、ソ連側の人々の目が鋭くなったが、幸いにもゴルバチョフ自身は智敏の礼を欠いた行動を気にすることもなく、再び文総裁との会話を続けようとした。

 しかし、智敏はその瞬間、顔を上げた。そしてゴルバチョフをじっと見つめ、口を開いた。

 「書記長に聞きたいことがあります」

 すべての人々の視線が智敏に突き刺さった。

 智敏はそれを受け止めながら、立ち上がった。彼はゴルバチョフに近寄った。

 手を伸ばせば触れる距離まで来ると、警戒の色をあらわにして智敏をにらんでいた警護員が、腰の辺りに手をやり、急いで駆け寄ってきた。

 しかし、ゴルバチョフは手で警護員を制すると、沈黙と張り詰めた緊張を自ら破った。

 「何でしょうか?」

 「書記長は」

 智敏はゆっくりと口を開いた。

 「どうして大韓航空007便の事件について、謝罪しないんですか?」

 執務室の中は、時間が止まったように静まり返った。

 殺気立った目で智敏をにらみつける警護員。血の気を失って真っ青になっているピーター・パクとマイケル・ウォルシュ。ひどく緊張しているのか、いつもの微笑が消えかかった韓女史に、智敏を注意深く見つめる文総裁。

 そして智敏と向かい合ったまま、顔をこわばらせているゴルバチョフ書記長。

 智敏が再び口を開いた。

 「俺は妹を失いました。当時、戦闘機のパイロットだったゲンナージィ・オシポーヴィチを撃ち殺すために、ソ連に来ました」

 「……」

 文総裁と韓女史を除く全員の顔が、真っ青を通り越してどす黒く変わった。

 一体この青年は、何を話しているのだ。

 極度の緊張に包まれたゴルバチョフの執務室で、智敏は言葉をつないだ。

 「ただ生き抜くために命令に従ったオシポーヴィチを、俺は撃つことができませんでした。彼を撃っても、復讐(ふくしゅう)にならないからです。次に俺が撃とうとしたのは、ソ連共産党の最高指導者、すなわち書記長であるゴルバチョフ、あなたでした」

 警護員がまた動こうとしたが、ゴルバチョフは再び彼を制した。

 「なぜですか。ソ連はなぜ大韓航空007便を撃ったんですか?」

 「……」

 「ソ連を追及し続ける人間が誰もおらず、何の答えも得られていません。書記長、あなたには答える責任があります。なぜ、大韓航空007便を攻撃したのですか?」

 ゴルバチョフは口をぎゅっと閉じたまま、智敏を見つめるだけだった。

 智敏は徐々に声の調子を上げ、ついに血走った目で絶叫した。

 「それからソフィアは、あなたのことを民衆の味方だと叫んでいたソフィアは、なぜあんな目に遭ったんですか。あなたの言葉を代わりに叫んだ彼女が、どうして死ななきゃならないんですか。あなたは臆病者なんじゃないですか? 大衆の後ろに隠れて、言葉で彼らを惑わすだけの臆病者なんじゃないですか?」

 ゴルバチョフも、信じがたい場面を目撃した周囲の人間も、誰も言葉を発しなかった。

 ひどく長い沈黙が続いた。

 1秒が1年にも感じられる。智敏もゴルバチョフも、まるで話す能力を失ったかのように、ひたすらお互いを見つめ合った。

 その静寂が、それまでしばらくの間、目を閉じていた文総裁の、歴史の審判官のような重々しい声によって破られた。

 「書記長、共産主義の出現によって、戦争を除いても、1億人以上の人々が命を奪われました。そして、オシポーヴィチは罪のない民間機を撃墜しました。しかし、これは誰のせいでもありません。ソ連では、誰でもそうせざるを得ないのです。生み出されるべきではなかった、この共産主義のせいです。書記長、今ここで、共産主義の終焉(しゅうえん)を宣言するお考えはありませんか?」

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 次回は、「大韓航空007便の真実」をお届けします。


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