2021.09.14 22:00
預言 30
モスクワでの再会
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金辰明・著
30 モスクワでの再会
何の取り調べも行わないまま、智敏(ジミン)を留置場に放り込んだ警察は、3日目の朝になってようやく智敏を呼び出し、取調室の机の前に座らせた。
「どっちだ?」
「……」
「学生証を盗んだ浮浪者か? それともデモに加担した反国家分子か?」
「……」
「この野郎、なんで答えないんだ! どっちかと聞いているだろう!」
それでも答えない智敏を見て、調査官は女性職員に身元を調べるよう命じる一方で、ほかの職員に指示を出して彼を倉庫へ連れて行かせた。
「自分の立場を理解させてやれ」
智敏が連れ出された後、突然、身元照会をしていた女職員が悲鳴を上げた。
「あっ、この人!」
「何だ、どうした?」
「大変です! すぐに呼び戻さないと。署長に早く知らせてください!」
「何なんだ、一体?」
「局長の特別指示が出ています。発見したらすぐに局長に知らせるようにと」
女職員はどうしたらいいのか分からず、慌てふためいた。
「なぜだ? 極悪犯罪者なのか? それともデモの首謀者か?」
「いや、そうではなくて……」
智敏が連れて行かれたのは、倉庫とは名ばかりの、薄汚れた場所だった。
取調室で殴るのは時たまだが、倉庫ではひとまず殴ってから尋問をするという。しかし、智敏は何の抵抗も説明も、しようとはしなかった。
「こいつを縛りつけろ!」
倉庫番は、智敏を連れて来た2人の新米警官に手錠と縄を放り投げて指示した後、太い棍棒(こんぼう)の柄を握った。
ガッ!
皮膚が裂け、血が流れるのが分かった。
智敏は気が狂(ふ)れたように顔を上げ、天井だけを見つめた。
「ハハッ、悲鳴すら上げやしねえ。こいつ、留置場でも一言もしゃべらなかったそうじゃねえか。俺が5分以内に500ワットのスピーカーに仕立ててやるぜ。お前ら、よく見とけよ!」
倉庫番は新参の前でやたらに張り切り、棍棒を頭上いっぱいに振りかざすと、全力で智敏に叩(たた)きつけた。
「ああっ!」
悲鳴が倉庫いっぱいに響き渡る。
2人の新米警官は思わず目を閉じてしまった。これまでも数多くの暴行場面を見てきたが、今日の倉庫番は狂っているとしか思えなかった。
100キロを超える巨漢であっても、あの一撃で気絶するどころか、死んでもおかしくない重症を負うだろう。新参の2人は最悪の事態だけは目にすることがないようにと願いつつ、恐る恐る目を開けた。
しかし、そこには予想と全く違った光景が展開されていた。
「ぐああああっ!」
倒れ、倉庫の床に転がって悲鳴を上げていたのは、縛られていた挙動不審者のほうではなく、倉庫番自身だった。
目の前には保安課長、そしてその横には署長が立っていた。
保安課長の手にある棍棒で、腹を目いっぱい殴られて転がっている倉庫番、という構図が一目で見て取れた。
「早く解(ほど)け!」
署長は指示を出すと同時に走り寄り、自ら智敏の手錠を外そうと四苦八苦した。
保安課長もまた、急いで縄を解くのを手伝った。彼らの背後にいたスーツ姿の紳士もまた、すばやく走り寄って手を貸した。
「ミスター・オーツダ、本当に知らなかったのです。お詫(わ)びの言葉もありません」
署長の声は震えていた。
紳士は怒りあらわに、智敏を連れて警察署を出るまで一言も口にしなかったが、車に乗ってから、やっと自分の名を明かした。
「体はいかがですか? 病院に行きましょうか?」
韓国語だった。
「大丈夫です」
「私は大津田といいます。日本人です」
30代中頃、端正な顔立ちのその男は、智敏に頭を下げた。智敏はここ数日間、一言も発していなかった口を開いた。
「誰が助け出してくれたんですか?」
「文鮮明(ムン ソンミョン)先生が来られました」
智敏は以前、イースト・ガーデンから届いた手紙を思い出した。4月10日。もうそんなに時間が経(た)っていたのか。
「数日後、クレムリンを訪問するためにいくつか準備することがあります。私はそれをお手伝いするために来ました」
「クレムリン? 俺が?」
「先生がクレムリン表敬訪問団の名簿にお入れになったのです」
智敏は首を横に振った。
「行きません。俺はもう死んだ人間です。先生には、モスクワを去ったと伝えてください」
「それはできません。既にゴルバチョフ書記長と面談することになっています」
智敏は黙った。
「明日から、ソビン・センターで世界言論人会議、世界平和のための頂上会議、中南米統合機構会議という3つの大きな会議が開かれます。これが終わったら、ゴルバチョフ書記長が主な方々を翌日の午前中にクレムリンに招待し、会談を行うのですが、そこに主賓として招かれているのです」
ソビン・センターには世界各国の元首脳28名を筆頭に、各国の言論人や文化使節団が到着していた。
外国人で埋め尽くされた会場は、いつになく慌ただしく、活気に満ちていた。
また、ソビン・センターからホテルに至るまで、そこらじゅうに物々しい警戒態勢が敷かれた。
世界言論人会議、世界平和のための頂上会議、中南米統合機構会議の3つの会議が大々的に開かれる間、ソ連は厳重な警備を敷いたため、ごく些細(ささい)な問題すら起こらなかった。
3日間の会議のスケジュールをすべて無事に終えた夜、文総裁が智敏を呼んだ。
「ジミー!」
智敏はどっと湧き上がる感情を必死に抑えた。
ダンベリー刑務所以来、実に久しぶりの再会だった。時には毎晩その名を呼び、進むべき道を尋ねたこともあったが、今はもう、すべてが無駄骨に終わってしまった。
自分はオシポーヴィチもゴルバチョフも殺せない、虫けらのような、無力な存在なのだ。
「先生」
どんな色彩も帯びることのない智敏の声が、力なく響いた。しばらく智敏を見つめていた文総裁の口から、突拍子もない質問が飛び出した。
「ジミー、映画や小説は好きかい?」
刑務所での丁重な話し方とは違い、息子に問いかけるような、親しみのこもった心安らぐ声だった。
「分かりません」
「型破りな人間、あるいは荒っぽい人間が主人公だった場合、どう思う? そういう人物は虫唾(むしず)が走るくらい嫌かい? それとも、その主人公が生きてきた人生に同情し、理解を示して、応援するだろうか」
「おっしゃる意味が分かりません」
「答えてくれないか?」
文総裁が迫るように何度も尋ねるので、智敏は仕方なく答えた。
「……応援します」
「ああ、そうだろう。主人公の味わった紆余(うよ)曲折と事情を知れば、誰もが理解せざるを得ない。だからジミーは、オシポーヴィチを赦(ゆる)した。どの悪人も、憎み切れなかった」
「……」
「それなら、敵は一体誰なのか?」
「……」
「今までいろんなことを考えてきただろう。本当の復讐(ふくしゅう)とは何かも、薄々気づいていると思う。明日、クレムリンで、言いたいことを言いなさい」
誰に、何の話をしろというのか。まさかゴルバチョフに?
既に心がからっぽになってしまった智敏ですら、その話を聞いて、茫然(ぼうぜん)自失した。
しかし文総裁は、穏やかな表情で智敏の肩を2、3度叩いただけだった。
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次回(9月21日)は、「絶叫」をお届けします。