2021.09.03 22:00
愛の知恵袋 154
「もう一人のシンドラー」(中)
松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)
オトポール事件の勃発
ユダヤ人迫害を非難し、「彼らに安住の地を与えよ!」と言った樋口季一郎の演説は、内外に波紋を起こした。ドイツ政府は不快感を表明し、関東軍内部でも「日独関係を悪化させるような論調は許されない」という批判が出てきた。しかし、その矢先、もっと大きな事態が勃発した。
1938年3月、満州里と国境を接するソ連領オトポール駅に、ユダヤの難民がたどり着き、吹雪の中で立ち往生しているという知らせが入って来た。
ヨーロッパにおけるナチスのユダヤ人狩りを逃れて、シベリヤ鉄道で上海を目指してきた難民たちであった。しかし、満州国は彼らの入国・通過を拒否していたのである。
カウフマン博士が樋口の部屋に飛び込んできて、窮状を訴えた。「難民たちの食料は尽き、飢餓と寒さで死者が出ています!」と必死で助けを求めたのである。オトポールは3月でも夜は零下20度になる極寒の地である。
樋口の苦悩と決断
樋口は苦悶した。当時の陸軍は人種差別はしないという方針であったが、同盟国のドイツの怒りを買うことをやって外交問題を起こせば、処罰を覚悟しなければならない。
その時、樋口の脳裏に、かつてグルジアを旅行中に出会ったユダヤ老人の言葉がよぎった。「あなた達日本人がきっと助けてくれる。あなた方がきっとメシヤなのだ!」
しばしの沈黙の後、樋口は意を決した。「よし、俺がやろう。軍を追放されてもいい。正しいことをするのだ。恐れることはない」、そう自分に言い聞かせて、決然としてカウフマン博士に言った。「博士、難民の件は承知した。博士は難民の受け入れの準備にかかってください!」博士は、樋口の前で声を上げて泣いたという。
一刻も猶予はない。樋口は直ちにユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給を手配した。
九死に一生を得たユダヤ難民
その2日後、ハルピン駅ではユダヤ協会の幹部たちが救護班を率いて列車の到着を今か今かと待っていた。列車が轟音と共に滑り込む。どよめきがホームに広がり、担架をもった救護班が車内に飛び込んでいく。病人が次々に運び出され、ホームはやせこけて目が落ち窪んだ難民達でいっぱいになった。
抱擁し合い泣き崩れる彼ら一人一人に、カウフマン博士は涙でぬれた顔を拭おうともせず、いたわりの声をかけてまわった。残念ながらすでに凍死者や病人が出ていたが、樋口の判断がもう一日でも遅ければ、もっと悲惨な結果を迎えていたと言われている。
樋口は入国や出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への脱出の便宜を図ったが、満州鉄道総裁の松岡洋右にも直談判して、特別列車を仕立てて上海への移動を助けた。
ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社の記録によれば、ドイツから満州里経由で満州に入国した人数は、1938年に245人、39年には551人、40年には3574人、41年の数字は不明となっている。
こうして多くのユダヤ人が「ヒグチ・ルート」を通って上海に脱出し、そこからアメリカなどに避難して生き延びたのである。その人数は諸説があり、2万人という説もあるが、少なくとも5千人以上はいたものと推察されている。
この時命を救われた人やその子孫には、米国やイスラエルで大使や科学者になった人もあり、諸分野で世界に貢献した人達も少なくないという。
非難の矢おもてに立たされた樋口と東条の英断
日本とドイツはこの前年に日独防共協定を締結し同盟国になっていたため、この事件は大きな外交問題となり、ドイツ政府からは抗議文書が届いた。また、関東軍司令部でも樋口の行動に批判が起こり、「即刻、彼を罷免すべきだ」という声が高まった。
樋口は関東軍司令官の植田謙吉大将に自らの所信を述べた手紙を送り、そのうえで司令部に出頭して当時関東軍の総参謀長だった東条英機中将と面会し、「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」と発言したという。
樋口の信念に理解を示した東条は彼を不問にし、ドイツからの再三にわたる抗議に対しては、「当然なる人道上の配慮によって行ったものである」と一蹴した。
さて、樋口季一郎を語るとき、実は、彼には我々日本人が忘れてはならないもう一つの大きな功績がある。終戦時、ソ連軍の北海道占領の意図を見抜き、これに反撃して日本を分断国家になることから救ったことである。
(次回につづく)
(参考資料:「向学新聞」国際留学生協会・2008年12月号/フリー百科事典ウィキペディア)
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