2021.08.06 22:00
愛の知恵袋 153
「もう一人のシンドラー」(上)
松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)
樋口季一郎とユダヤ人とのふれあい
ヒトラーのユダヤ人迫害が激しくなった時、約2万人のユダヤ難民を救済した日本人がいた。当時、満州のハルピンに特務機関長として勤務していた樋口季一郎(ひぐちきいちろう)である。
リトアニアの日本領事館で6000人のユダヤ人を救った杉原千畝(すぎはらちうね)の功績はすでによく知られているが、樋口の成した行為はそれに勝るとも劣らぬ勇気ある行動であった。
樋口季一郎は1888(明治21)年8月20日、兵庫県淡路島で奥浜久八とまつの長男として誕生。11歳の時、両親が離婚して母まつの実家で育ち、18歳の時に岐阜県大垣市の樋口家の養子となった。
彼は大阪陸軍幼年学校を出て陸軍士官学校へと進み、軍人としての道を選んだ。陸軍大学に進んだ樋口はドイツ語とロシア語を習得。卒業後、参謀本部勤務となって対ロシア関係の仕事に従事した。1919年にウラジオストクに赴任した時、ロシア系ユダヤ人の家に下宿し、ユダヤ人青年と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。
1925年、ポーランドの駐在武官としてワルシャワに赴任。この時、世界各国の外交官、武官などと幅広い交流をする中で世界的視野と弾力性のある思考を身につけた。
ここでも人口の3分の1を占めるユダヤ人が差別と迫害を受けている実情を知ることとなったが、当時、有色人種への差別意識が強い中で、樋口や日本人留学生たちを快く下宿させてくれ、助けてくれたのはユダヤ人たちであった。
あるユダヤ人老人との出会い
ソ連は革命政権樹立間もない頃で、外国人は入国禁止であったが、樋口は幅広い人脈のお蔭でソ連領内のコーカサス地方に入れた。この時の旅で一人のユダヤ人老人と運命的な出会いをした。グルジアの首都チフリス(現トビリシ)郊外の貧しい集落を歩いていた時、ひげを生やしたやせた老人が近づいて来た。彼らが日本人だと聞くと顔色を変え、家の中に招き入れて話し始めた。
「私はユダヤ人です。世界で一番不幸な民族で、どこに行ってもいじめられてきました。日本は東方の国で、太陽が昇る国。あなた達日本人はユダヤ人が悲しい目に遭った時、きっと助けてくれるに違いない。あなたたちがメシヤなのだ。きっとそうに違いない!」と語ると、老人は滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら祈りを始めたという。樋口は困惑しながらも、老人の顔に刻まれた皺とその涙に、流浪の民の悲哀と、救いを希求する民族の悲願を垣間見たのであった。
日中戦争が勃発した直後の1937年夏、49歳の時、陸軍きってのロシア通だった樋口はハルピンの特務機関長という重要ポストを与えられた。満州国に来てみて樋口が驚いたのは、日系官吏が幅を利かせ、多くの日本人が利権あさりに汲々としている実情であった。「これでは民衆の信頼を得られない」と感じた樋口は若手将校を集めて、「満人の不満をよく聞くように努めよ。悪徳な日本人はビシビシ摘発しろ!」と命じた。
カウフマン博士と極東ユダヤ人大会
そんな樋口の不良日本人退治が進み始めたある日、ユダヤ人医師カウフマン博士が樋口を訪ねてきた。彼は総合病院を経営する内科医で、ハルピンユダヤ人協会の会長であり、アジア地域のユダヤ解放運動のリーダーの一人であった。
博士は切実に訴えた。「ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は激化する一方です。こうした非道を全世界に訴えるために、ここハルピンで極東ユダヤ人大会を開催したい! その許可を頂きたい」というのであった。
樋口は即座に、「博士、おやりなさい。あなた方の血の叫びを、全世界の人々に聞いてもらいなさい。私も及ばずながらお力になりましょう」と言って快諾した。
1937年12月。第1回極東ユダヤ人大会がハルピン商工倶楽部で開催され、会場は東京、上海、香港などから集まったユダヤ人の代表約2000人で埋め尽くされた。
各地域の代表が次々に登壇し、最後に来賓として招待されていた樋口が演壇に立った。会場は一瞬シーンと静まり返った。「20世紀の今日、ユダヤに対する追放を見ることは、人道主義の名において、また人類の一人として、私は悲しまずにはおられないのである。ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ! 安住の地を与えよ! そしてまた祖国を与えなければならないのだ!」
演説が終わった次の瞬間、すさまじい歓声が鳴り響き、熱狂した青年たちは壇上に駆け上がり、樋口の前で号泣し始めた。ユダヤ協会の幹部たちも顔を紅潮させて次々に樋口のもとに駆け寄って手を握った。
(次回につづく)
次回の配信は9月3日(予定)です。