愛の知恵袋 155
「もう一人のシンドラー」(下)

(APTF『真の家庭』276号[2021年10月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

終戦直前、満州・南樺太にソ連軍が侵攻

 1942年(昭和17年)8月、樋口季一郎中将は北部軍司令官に任命され、札幌に赴任した。北海道・南樺太・千島列島など日本の北方全域を防衛する任務であった。

 194586日、広島に原爆投下。その直後の89日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満州と樺太で一挙に攻撃してきた。

 当時、北海道には350万人、南樺太には40万人の住民がいた。11日、ソ連軍の南樺太への本格的侵攻が始まり、戦車を先頭に南進してきた。これを迎え撃つ日本の国境守備隊は1両の戦車もなく壮烈な戦いになり、一般市民を避難させる時間を稼ぐため、警察官や志願した住民隊も闘い、侵攻するソ連軍に抵抗し進撃を遅らせた。

 814日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏。大本営は全軍に停戦を命じ、同時にマッカーサー元帥も米軍に攻撃中止を命じた。しかし、ソ連はこれを無視した。

 南樺太を占領し、そこを拠点に北海道本土に侵攻する意図あり…と見抜いた樋口中将は、第88師団に対して南樺太南部を死守するように命令した。

 後日判明したことであるが、スターリンは16日にトルーマン大統領に、満州、朝鮮北部、南樺太、千島列島、更には、釧路留萌線以北の北海道の領有を要求した。

 トルーマンは「北海道占領は認められない」と返答。スターリンは激怒し、ソ連軍に千島列島への侵攻を指示し、米占領軍が来る前に北海道北部を占領せよと命令した。

 マッカーサー回顧録によれば、ソ連はその後も東北以北の東日本の領有と首都東京の分割統治まで主張したという。ドイツと同様の分断統治を企図していたのである。

▲千島列島の位置(ウィキペディアより)

終戦直後、千島列島に侵攻、占領

 千島列島では、守備隊が武装解除を始めていた818日の未明、ソ連軍がカムチャツカ半島から日本領の占守島(しゅむしゅとう)を砲撃、大軍で奇襲上陸してきた。国際法違反である。

 樋口は全責任を取る覚悟で占守島守備隊に「断固、反撃に転じ、上陸軍を撃滅すべし」と打電した。守備隊は奮迅の闘いでこれを撃破したうえで、ソ連軍に武装解除された。

 予想外の大被害を出したソ連側は、千島列島占領に時間を取られ、米軍が来る前に一気に北海道まで上陸占領するという計画に狂いが生じた。

 822日、スターリンは北海道占領計画を断念し、その旨をマッカーサーに伝達したが、その腹いせに、北千島・中千島の20島でとどまらず、日本固有の領土である南千島(北方4島)にも上陸して占拠。以来、今日に至るまで不当に実効支配している。

 さらに、樺太・千島を守備していた日本軍捕虜を全員シベリヤへ送り強制労働させた。

樋口の引き渡しを拒否したマッカーサー

 いずれにせよ、樋口中将の指揮による樺太・千島での自主防衛戦闘によって、ソ連の北海道占領、ひいては、日本の分断統治の野望が砕かれたことは明白である。

 そのため、終戦後、スターリンは極東国際軍事裁判で樋口季一郎を戦犯として指名し、引き渡しを執拗に要求してきた。しかし、マッカーサーはそれを断固拒否した。

 そこには二つの大きな背景があったという。一つは、調査をしてみたが、樋口が指揮してきた軍では、捕虜の虐待や人道上の非道行為は一件もなかったのである。もう一つは、世界ユダヤ協会が連合国要人に働きかけ、樋口の救済に奔走していたのだ。

 樋口がこの事を知ったのは5年後だった。1950年、アインシュタイン博士が来日した時、東京渋谷のユダヤ教会でユダヤ祭が開催され、樋口夫妻が招待されたのである。幹事役のミハイル・コーガンが演壇でスピーチをした。彼はあのハルピンで開かれた極東ユダヤ人大会で、来賓の樋口の護衛を務めたユダヤ青年であったのだ。

 彼の口から、世界ユダヤ協会が動いて「オトポールの恩を返すのは今しかない!」と樋口救出の運動をしたこと。また、1948年のイスラエル建国に当たり、国家建設と民族の幸福のために尽力してくれた功労者を讃える「ゴールデン・ブック」が作成され、樋口季一郎の名が「偉大なる人道主義者、ゼネラル・ヒグチ」という一文と共に記載されているということが明かされたのである。

 戦後、樋口は表に出ることはせず、黙々と生きて、1970年、82歳で他界した。

 孫の樋口隆一(明治学院大学名誉教授)によれば、過去は語らず、毎朝、戦死した全ての部下たちの冥福を祈っていたという。近年、樋口の功績に対する再評価の動きが内外で起こり、北海道石狩市には樋口季一郎記念館が建てられている。

 20186月、樋口隆一氏はイスラエルに招かれ、ヒグチ・ルートで救われたユダヤ人の子孫と感慨深い対面をすることができた。

(参考資料:fujisan3216のブログ樋口季一郎伝、樋口季一郎記念館資料)

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