2021.08.13 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(12)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
1 牧会
主管性転倒(3)
聖書に禁じてあるのも、このことに関してなのです。すなわち、不平、不安、血気、怒気ということで、これがサタンが人間の中に入る、入り口なのです。いつも怒らずに平和に、そして感謝、忠孝、忠誠、真心、謙遜(けんそん)を戒めとして示してくれているのです。結局、堕落性を脱ぐには、だれにつながって、どの立場において情を使うかということにおいて分別していかなくてはならないのです。
情は、自分勝手に使うのではなく、神に使うか、あるいは、サタンに使うか、二通りしかないから、自分の情が神の立場にあればそれは平和であり、自らを考えずに、迫害されながらも喜んで感謝して行けるのです。怒られても、にこにこ笑う。すると向こうは、もっと赤くなって怒るのです。というのは、私の血気まで向こうで引き受けてしまうことになるからです。
例えば、ある人が不平を十もってきて、私の五つの不平をもらいにくるのです。私がにこにこ笑うと、その人は十五になって、血気が強くなってしまうのです。しかし、もしここでその人に付き合って不快に思うと、五つをお互いに分配してしまうのです。分配してしまうから、けんかがすぐ終わってしまうのです。信仰する立場で反抗すれば、すぐその事件は終わって、自分もサタン主管圏内に入ってしまうことになるのです。もし、ここで忍んで笑って耐えるとすれば、向こうがサタンの部分を引き受けて、蕩減(とうげん)することになるのです。だから、よく血気早い人は、血気早い人に殴られるのです。しかし、謙遜な人は、血気早い人に殴られることはないのです。
だから、この教会に来る前に、よく怒ったり、また人を殴ったりしたことのある人が来た時には、それ以上強い人に任せて、一度は袋だたきにしてしまうというような、そういう蕩減をするのです。
本性
「固執」という堕落性がありますが、これは忠誠の本性が逆転してなるのです。ゆえに、固執の強い人がもし信仰に入れば、忠の強い信仰者になるのです。パウロなど、そもそも固執の強い人間だったのです。このように本性も、立場が違うと、堕落性になってしまうのです。だから、堕落性があるからと、簡単に自分を悪と決めつけたり、思ったりしてはいけないのです。それも使い方によっては、本性としての素晴らしさを発揮できるのであって、ただ立場が違うと、罪になるのです。立場が元に返ると、それは本性になってしまうのだから、したがって罪というものはないというのです。
なぜ罪というのでしょうか。サタンの立場に立つから、罪という言葉が出てきたのです。だから、それを切り替えるイエス様一人によって皆の罪がなくなる、贖罪(しょくざい)できるのは、ここに理由があるのです。しかし、今まで修行した人、信仰した人たちは、必死になって、食べずに、眠らずに、ひざにまめができるほど祈ったけれども、結局、自分の本性も、サタンの正体もつかむことができなかったのです。
よみがえるというのは、私たちのその本性をよみがえらせるということではないのです。サタンの霊によって、サタンの結果が結ばれていた本性を、また神の聖霊によって、聖霊の実が結ばれる本性にするのです。だから、信仰すれば今までより高い、より公の情、すなわち自分よりも家庭、家庭よりも民族を心配するというように、情の方向が違ってくるのです。信仰する前とあとでは、今までとは違って人のために涙を流すというように、情のレベル、基準が違うのです。
結局、自分よりも他人、他人よりも歴史とか未来、それよりも天の創造目的のためにという、この世で比べられない永遠なる情にまで行くのです。皆さんは、自分の物足りない部分というか、罪というか、そういう自分の欠点にこだわってあまり心配してはいけない。それよりも、私たちは神の心配を分け持たなければなりません。
食べるのも生きるのも神のためであるのなら、私たちの情というものも、神から来るものと思わなくてはなりません。今までのサタンからの情を切って、立場が違ったということを分からなくてはいけない。今までの自分と思ったなら、いくら信仰してもそのままになってしまうのです。聖書にあるように、君の信仰が君の願いをなすというのです。病人に対して、「汝(なんじ)の信仰が病気を治した」というのと同じく、皆さんが自分をだれのものと思うかということが大切なのです。自分の情も、神のものと思えばいいのです。
既成教会の人たちはこれを知らないので、いつも、「罪人、罪人、どうかこの罪を救い給え」などと、すらすらと言っているけれども、自分の位置は神側に来ているのです。
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次回は、「侍る/霊的枯渇」をお届けします。