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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(10)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
一、平壌開拓の日々

▲金元弼先生

霊界から導かれたおばあさん

 先生に指示を求めて訪ねてくる人は、私たちにとって、学ぶべき内容をたくさんもっている人たちでした。

 苦しんだ人には苦しむ人の事情が分かるように、この人たちが神の真の心情を求めて、どのくらい苦しい道を歩いたかは、そういう境地を通過してこそよく理解できるのです。そういう人たちの話を全部することはできませんが、何人かの人の話をして、どういう人であったかの一端を考えてみたいと思います。

 70歳近いおばあさんの霊能者がいました。その人は、韓国の土着宗教を熱心に信じていた、信仰深い人でした。七つ星(北斗七星)を信じ、それを神と信じていた人です。40歳の時、その人に神が現れました。丘に上がって、丘から平壌市内を見せながら、「三角形になっていて屋根が鋭く、その上に十字架がかかっている所があるでしょう」と言われました。毎日曜日には鐘が鳴る、そういう所があるのですが、そのキリスト教会を訪ねなさいと教えてくださったのです。そして、「これからは私に従うのではなく、そこに従うようにしなさい」と教えてくださいました。彼女には、キリスト教とは何かが分からないので、屋根に十字架のある建物を訪ねなさいと教えてくださったのです。

 ところが、教会に行って聖書を手にした時に、神のみ言が全然読めないので、大変困ってしまいました。その当時の韓国では、男の人には勉強させたのですが、女の人には学校にも行かせませんでした。それで彼女は字が分からず、み言を読めなくて非常に困っていた時、神は「それでは私が文字を教えてあげよう。そうすればあなたは聖書を読むことができるでしょう」と言って文字を教えてくださいました。そして神は、聖書の1ページを開くように示しました。すると白い髪の毛の人が現れて、彼女の手を文字一つ一つに当てながら、「この字は何という字だ、その次は何という字だ」という具合に教えてくださり、聖書が読めるようになったのです。

 そういう霊能者を、周りの人たちは神のように考え、慕っていました。というのは、いろいろと困難なことがあって彼女を訪ねると、彼女は、その人たちに過去のこと、現在のこと、将来に起こることを話してくれたからです。病気になった時には、治してくれたり、難しい問題が起こっても、それに対してどうすればいいかを一つ一つ、絵を見るように教えてくれたりしたのです。

 彼女は毎朝早く、高い山に登っていってお祈りをしていました。ある時には、何かに乗せられてそのまま体が浮いて、山の上に置かれたという体験もしました。また別の日に、お祈りのために山の中の林を歩いていると、とても古い木がありました。その木が彼女に話し掛けるのです。「おばあさん、おばあさん」と。それで振り返ってみると、古い木が呼んでいるのが分かったのです。その木は、「おばあさん、人が使うところで一番汚い所でもいいですから、私を使ってください」と頼むのです。一番大事にするタンスなどの材料に使うものもありますが、トイレのような汚い所に使われる木もあります。ですから木は、そういう所でも構わないので、人の近くで使われる、そういう所で使ってくださいというのです。

 また、ある人は、40日断食の、最後の祈りの時に、部屋の中に、白くてとてもおいしそうなパンがお皿に載せられているのを見つけました。ひもじいのですから、直ちに食べたい思いでいっぱいでした。けれども、「これはサタンが私を試験しているのだ」と考えて、すぐにそれを取って外に投げ捨てたというのです。

 そういった信仰の篤実な人たちですけれども、先生のところに訪ねてくると、彼女たちにとって先生は孫のような年なのですが、先生に最も近い所に座りたがるし、先生の着物にでも触れたいという心持ちでした。

 先生は、夢や幻を見たり、病気を治したり、心霊を透視するというようなことはされませんでした。ですから、平凡で、私たちと同じように感じられる時がたびたびありました。指導者然とした格好ではありませんでした。私たちと同じようだったのです。礼拝の司会をされる時も、説教をされる時にも、私たちと同様に座っていらっしゃいました。食事も同じようにされますから、全然気がつきませんでした。特別な座布団を敷かれるのでもありません。先生は自ら語られることはなかったのですが、信仰の篤い霊能者たちの侍り方を見て、先生がどのような方か、推し量ることができました。

 その霊能者たちは、先生の説教を、小学生がその先生の話を聞くように、従順に聞いているのです。また、聖日礼拝が終わると昼食の時間となるので、たびたび礼拝のあとに食事を共にしました。食事にしても、全く同じ食事でした。平日でも、そういう人たちがいつもいつもいっぱい来ており、お話のあとに、お昼になれば教会で一緒に食事をするようになりました。

 そこに集ってくる人は中流以上の人たちで、食物に関して少しも不自由を感じない、そういう生活をしている人でした。ですから、自分たちの家でする食事より、教会での食事は、非常に貧しいものでした。

 そういう中で、食口の中には、胃腸が悪くて、食べ物がなかなか食べられない人がいました。その人は長年の間、治らない病気にかかっていました。それは、当時の韓国の社会では、医学が発達していなかったからです。先生は食べていた御飯を少し残して、その人にあげました。その人は、消化するのもなかなか難しい状態でしたが、先生を心から信じていましたから、その御飯を食べました。すると不思議なことに、長年胃腸病であったのが、食べた次の週には治ってしまったのです。このようなことが一人、二人と起こり、どんどん数が増えていきました。それでみな、先生が食事される時はいつも、「少し残して、私に下されば……」と願うようになったのです。そのため、その時から教会の食事は、「薬御飯」と言われるようになったのです。教会の食事は、特別なものではないのですが、自分たちの家の良い食事よりも、みな教会に来て食べることを願ったのです。

 最初、霊能者たちは、先生がどんな方か気づかなかったのですが、徐々に霊界がいろいろなかたちでお告げをしてくるので、彼らは「このような所で先生を休ませるのは間違いである」と気がついたのです。そこで献金して、先生の部屋を直すことになりました。部屋を造ることはできないので、壁に新しい紙を張ることにしたのです。

 韓国では、紙を張るときにはメリケン粉を煮て、のりを作っていました。婦人たちは長年の間、のりを作ってきた経験があるので、誰でものりを作ることができるのです。ところが、粉を混ぜてのりを作ったのですが、粘り気がありません。本当に不思議なことでした。そういうことはめったにないはずなのに、粘り気がないのです。

 そこでまた、気がつきました。先生の価値が分かってからは、今まで家で使っていたものの使い掛けで作ったのでは、真心を込めて侍るということにはならないと。それで悔い改めて、新しい物を買い、それを入れて作ったのです。そうすると、全く同じ作り方なのに、今度は、大変粘り気のあるのりができたのです。

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 次回は、「真心で指導される先生」をお届けします。


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