日本人のこころ 52
『今昔物語集』

(APTF『真の家庭』273号[20217月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

インド・中国・日本の説話集
 『今昔物語集』は平安時代後期に編纂された日本最大の説話集です。説話とは、昔から語り継がれた神話や伝説、民話のことで、文字のない時代からの口承文学です。現存する物語集には全31巻、千話を超える話がありますが、一部、失われています。

▲『今昔物語集』の原文(鈴鹿本)ウィキペディアより

 『古事記』と同じように物語集も歴史に埋もれていて、再発見されたのは江戸時代。それを日本文学の高みとして評価したのが大正時代の芥川龍之介で、有名な『鼻』や『藪の中』『羅生門』は物語集に題材をとったものです。黒澤明監督のヴェネチア国際映画祭グランプリ映画「羅生門」は『藪の中』と『羅生門』が原作です。

 説話の内容は天竺(インド)・震旦(しったん・中国)・本朝(日本)と当時のグローバル世界を網羅し、日本人の好奇心の旺盛さをうかがわせます。背景には、仏教がインドで始まり、中国を経て日本に渡来したことにあり、多くが因果応報など仏教の教えを事例を通して説くものです。多くの僧たちが、説話を題材にしながら、仏教の教えをわかりやすく、人々に語り聞かせたのでしょう。

 インドでの話は、「志をたて、王妃マヤ夫人の腹に宿るシャカボサツ」「悟りを開いて、ブッダとなったシッダールタ太子」「炎に飛び込み、身を焼いて食事に差し出したウサギ」などで、仏教伝来とともにこうした説話が伝わってきていたことがわかります。

 奈良時代は学問のようだった仏教が、平安時代になって庶民の間にも、生き方の教えとして広まるようになります。平安時代中期には日本の浄土教の祖とされる源信が比叡山で『往生要集』を著し、人の死後や地獄の様子をリアルに説き、寺では地獄絵図が掲げられるようになりました。

 臨死研究で知られる宗教学者のカール・ベッカー京大教授は、臨死体験者が見た世界は、ほぼ『往生要集』に書かれていると言っています。死後の罰を恐れて信仰を持つようになるのは洋の東西を問わず同じで、中世ヨーロッパの教会でも骸骨で人々を脅かし、入信を迫るという風景がありました。

芥川龍之介の出世作に
 芥川の『羅生門』のもとになった話は、「死体の捨て場所だった羅生門のある夜のできごと」です。

 今は昔、摂津の国(大阪・兵庫)から盗みを働こうと京にやってきた男が、朱雀大通りの南端にある羅生門の下に隠れていると、白髪の老婆が若い女性の死体から、髪の毛を乱暴に抜き取っていた。男が刀を抜いて走り寄ると、老婆はあわてて、亡くなった女性は仕えていた主人で、鬘(かつら)にしようと思い毛を抜いていたと言って命乞いする。男は死体と老婆から着物をはぎ取り、抜き取った髪の毛を奪うと、夜の闇に消えていった。

 『藪の中』の原話は「名刀を交換した弓矢でおどされ、妻を犯された夫」です。

 京育ちの男は、妻と丹波の妻の実家に出かけた。妻は馬に乗り、男は弓を手に持ち、背中に矢を入れた筒を背負っていた。夫婦は大江山で出会った若い男と道連れになる。

 男が夫に自分の刀を見せ名刀だと話したので、夫は魅せられてしまう。男が、自分の太刀と弓を交換しないかと持ち掛けると、夫は喜んで応じた。次いで男が矢を2本貸してほしいと言うので、夫は貸した。

 昼飯時になり、男は「道端では落ち着かないから」と夫婦を茂みの奥に誘う。夫が妻を馬から抱き下ろしていると、男は矢をつがえた弓を夫に向け、「刀を捨てろ」とおどし、夫を木に縛り付けた……。

 物語では、女の着物を奪わず、夫の命を助けたとして男を褒め、逆に、夫は隙だらけの愚か者とこきおろしていますので、今の道徳観からは差があります。犯罪よりも、男子の本分を尽くしたかどうかが重要だったのです。

 『鼻』のもとは「長大な鼻をゆでては油抜きをする高僧の食事風景」です。

 宇治に住む高僧の鼻は1518センチもあり、あごよりも下がっていた。色は赤紫で、表面にぶつぶつがあり、それがかゆくてたまらない。

 そこで僧は、湯を入れた器に鼻をつけ、ゆであがると、横向きに寝て、台の上に鼻を乗せた。それを弟子に踏ませると、穴から白い虫のようなものが出てきたので、毛抜きで抜かせると、鼻は縮んで小さくなった。しかし、数日すると、またはれてくる。

 粥を食べるときは、弟子に板で鼻を持ち上げさせていた。あるとき、いつもの弟子が体調を崩し、別の弟子が持ち上げていると、弟子がくしゃみをしたとたん、鼻が板から外れてお椀に落ち、粥が飛び散った。

 怒った僧は「わしだからいいが、高貴な方にこんなことをしたらただではすまぬ」と弟子を追い出した。すると「こんな鼻がほかにあってたまるか」と悪態をついたので、ほかの弟子たちも大笑いした。

 夏目漱石が芥川の『鼻』を絶賛したのが、作家としての成功につながります。黒澤も芥川も、昔話を巧みな心理描写で今によみがえらせたのが評価されたのです。昔の人の心理を探りながら読むと、今と変わらない人々の生きざまが面白いですよ。

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