2021.04.11 17:00
日本人のこころ 46
『法華経』
ジャーナリスト 高嶋 久
護国仏教
日本の思想史上、最大の出来事は6世紀の仏教伝来です。百済の聖明王から538年、欽明天皇に仏像や経典などが贈られたのが仏教公伝で、日本書紀には552年と記されています。もっとも、それ以前から仏教を信仰する人たちが中国や朝鮮から渡来していました。
百済が日本(当時は倭国)に仏教を伝えたのは、北の高句麗、東の新羅の脅威に、日本の協力を求めるためです。古代、三国に分かれていた朝鮮半島に仏教が伝わったのは、高句麗が372年、百済が384年、いずれも中国からで、新羅が少し遅れて高句麗から5世紀初めです。百済からの渡来人が多かった古代日本は、親百済の外交政策をとっていました。
その仏教に大きな意味を見いだしたのが聖徳太子です。それまでの日本の思想と言えるものは神道ですが、これも渡来の仏教に対して作られた言葉で、日本人に自覚的な思想はありませんでした。祖先や地域に由来する氏神や土地の神、職業的な神を崇拝してきたのが神道で、部族や地域を超えた国家を形成する思想としては力不足でした。
それに対して古代インドのウパニシャッド哲学に鍛えられた仏教は、論理や体系においてはるかに普遍性があり、国家の思想になり得るものでした。特に日本に伝来した大乗仏教は、個人の悟りよりも他者の救済に重点を置いていたので、人々が助け合うことによって成り立つ国の思想としてふさわしかったのです。つまり国を護る教えとして仏教は受容され、護国仏教として日本に定着します。
その大乗仏教を代表する経典が、紀元前後に成立した『法華経』で、「諸経の王」とも呼ばれています。カースト制度の古代インドにあって、女性を含め誰もが平等に成仏できるとした画期的な教えでした。縄文時代の土偶がほとんど妊婦をモデルに作られていたように、命を産み育てる女性に対する崇拝心が強い日本人の心性にも合っていたのです。
インドで古来のヒンズー教と、中国で儒教や道教と習合したように他宗教と親和性のあった仏教は、日本の神道を排除することなく、神仏習合という日本的宗教に深化・発展し、今日まで日本人の心性の基礎を形成しています。
法華経の核心は久遠実成(じつじょう)の仏(久遠仏)の存在で、釈迦は永遠の過去から仏になっており、輪廻転生を繰り返した後に釈迦として誕生し、30歳で悟りを開く姿を示したという教えです。神が受肉(インカネーション)し歴史上のイエスとして生まれたとするキリスト教に類似しています。
大乗仏教の最終ランナーである密教になると、宇宙の人格的表現である大日如来が設定され、法華経を唱えた誰でも仏になれるとの教えが、さらに即身成仏として現実味を帯びてきます。石原氏は「来世の極楽とか地獄とかではなく、今生きている現世をいかに生きれば、涅槃という安らかな境地を得られるかを説いている」と結論しています。
光明皇后の法華寺
奈良時代、疫病で人口の5分の1もが死んでしまったという平城京で、流行を鎮めるため大仏造立を目指した聖武天皇の皇后・光明皇后は法華経を信奉し、全国に法華滅罪之寺を建て、それらを国分尼寺と呼び、父藤原不比等の邸宅跡に建てた皇后宮を総本山としました。今の法華寺で、皇后は境内に施薬院や悲田院を建て、から風呂で病める人たちを癒やしたと伝わります。今の皇后陛下につながる社会福祉活動の始まりが光明皇后なのです。
日本仏教の母山とされる比叡山延暦寺の天台宗は、最澄が「天台法華宗」と名づけたように法華経を至上の教えとし、明治維新まで皇室の厚い尊崇を受けていました。比叡山で学び、法華経に感銘した日蓮が「立正安国論」で激しい政治活動をしたように、日蓮宗(法華宗)は日本の政治思想として、国難の時代に何度も登場します。曹洞宗の道元も、坐禅を成仏の実践法としながらも、その理論的裏づけは法華経の教えに求めました。
明治27年に日清戦争が始まると大本営が宮中に移され、明治天皇は生母・中山慶子(よしこ)の奏上により法華宗本隆寺の本尊である「三宝尊」を宮中に運ばせ、日々戦勝を祈願しました。三宝尊とは仏・法・僧の三宝を祀る仏像で、大本営が広島に移り、明治天皇も遷られると三宝尊も同行し、天皇が日々拝まれたことから「天拝の三宝尊」と呼ばれました。
日蓮宗僧侶だった田中智学(ちがく)が創設し法華宗系在家仏教団体の国柱会(こくちゅうかい)は純正日蓮主義を奉じ、右派イデオロギーの源流となります。
国柱会で法華経を学んだのが宮沢賢治や高山樗牛(ちょぎゅう)、二・二六事件の思想的背景となった北一輝(いっき)、満州帝国の生みの親の一人・石原莞爾(かんじ)らで、牧口常三郎と戸田城聖は後に創価学会を結成することになります。法華経は今も日本の政治思想として生き続けているのです。