2021.04.06 22:00
預言 7
遅延
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1983年9月1日、大韓航空機007便がソ連の戦闘機によって撃墜された。その事件で妹を失った崔智敏は、ソ連への復讐に燃えて立ち上がる。アメリカに渡り、ソ連に入る機会をうかがう智敏。しかし、スパイ容疑で逮捕され、ダンベリー刑務所に入れられてしまう。そこで出会ったもう一人の韓国人。彼はソ連の絶頂期にあって、驚くべき宣言をした。韓国、アメリカ、南米、ヨーロッパ、ソ連……。世界を巡りながら、智敏が目にした歴史の真実とは?
本書は韓国のベストセラー作家である金辰明氏が、真の父母様が立てられた世界的功績に感銘を受け、執筆した小説の日本語翻訳版です。
金辰明・著
7 遅延
到着ゲートに智敏(ジミン)が最初に現れてから二時間ほど過ぎて、ようやくゲート前のベンチが一つ、二つと埋まり始めた。智敏は2時間もの間、一歩も動かずに、出口の両側を見渡せる真ん中の場所を守り続けた。
ゲートから出てくる智絢(ジヒョン)を見逃してしまったら、それこそ千年経(た)っても忘れられない恨みになるだろう。智敏にとっては今この瞬間が、何よりも重要だった。少しの間座って休むなど、考えるだけでも嫌だった。
智絢の消息を記した手紙を受け取れたのは奇跡だった。智絢が旅立ったあの日、智敏は孤児院に戻ってこなかった。次の日も、その次の日も。
年月が過ぎ、智敏のことも智絢のこともおぼろげな記憶となりつつあったある日、院長はアメリカからの思いも寄らない一通の手紙を受け取り、喜びの悲鳴を上げた。
院長先生、こんにちは。私たちの娘ジニー(ジヒョン)が、名門のダートマス大学に優秀な成績で入学したため、約束どおり、お知らせします。ところで、驚くべきニュースがあります。
ジニーが、入学のプレゼントとして韓国に行かせてほしいと言うのです。お兄さんに会わせてほしいと。
お兄さんのことはすべて忘れてしまったと思っていたのに、ジニーがお兄さんのことを胸に秘めたまま、一言も口に出すことなく、これまで長い年月を生きてきたと考えると、胸が張り裂けそうになります。
ジニーのために、院長先生が韓国のお兄さんを捜し出して、この事実を伝えていただけるなら、これほどありがたいことはありません。
しかし、お兄さんが見つかるか、とても心配しています。連絡を下さい。
智敏は時折視線を上げて、ニューヨーク発、「KAL007」という便名を目に入れるほかは、微動だにしなかった。
25歳になった智敏は、赤銅色の肌をした、たくましい青年に成長していた。
堂々たる表情をしていたが、深い目元にはこれまで味わってきた痛みと孤独がそのまま刻まれ、20代の青年の朗らかさや軽やかさよりは、むしろ、年齢に見合わない真摯さと重厚さが垣間見えた。
“父さん”
智敏は心の中で父を呼んだ。
“智絢が来るよ……”
智敏は言葉を止めた。また目頭が熱くなり、喉が詰まった。
しかし、智敏は奥歯をぐっと食いしばり、再び言葉をつないだ。今この瞬間、14年ぶりの再会の瞬間を、まず父に報告すべきだと思ったからだ。
“あの小さかった智絢が、ものすごく頑張ったんだ”
智敏は歯を食いしばったが、あふれ出る嗚咽(おえつ)を抑えることができず、顔を上げ、天井のある一点を見つめた。
過ぎ去った時間の激情が一度に押し寄せ、到底涙を止めることができない。
顔を上げていても、父への報告は途切れることがなかった。今まで生きてきた中で、今のこの瞬間以上に感激したことは一度もなかったし、これからも永遠にないと思われた。
“あの日、智絢が新しい両親と一緒に孤児院を去った日、俺は孤児院の塀の下に隠れて必死に涙をこらえていたんだ。車が遠ざかっていくのを見ながら、百回も、千回も、どうか智絢が幸せになるように、とひたすら願ったよ。その日以来、孤児院には二度と戻らなかったけど、智絢に会いたくなった時はいつも孤児院の近くに行って、随分長い間、塀の下に座っていた。智絢がアメリカで寂しがったり、ないがしろにされないことをひたすら願いながらね。その智絢が、アメリカの名門大学に入学して俺に会いに来るんだ。兄であるこの俺に。あの小さかった智絢がものすごく頑張ったんだよ”
どんなにこらえようとしても喉が詰まり、まつげの先に辛うじて留(とど)まっていた涙が頬を伝って流れ落ちた。いくら歯を食いしばっても、あごが震えるのを抑えることができず、思いも寄らない言葉が次々と口をついて出た。
“院長先生の言葉は正しかったよ。智絢をあのまま孤児院に置いていたら、俺のようになっていたかもしれない。俺は智絢の前に堂々と出て行ける兄貴になろうと思って、できる限りの努力をした。独りで夜通し英単語を覚え、通信教育も受けた。でも警察に何度も世話になったし、刑務所にだって入った。盗みはやらなかったし、他人を騙(だま)したりもしなかったけど、権力(ちから)がなければ……金もなければ……頼れるのはこの拳しかないじゃないか”
随分時間が経(た)ってから、ようやく智敏は高ぶる気持ちを静め、手の甲で涙の跡をぬぐった。いつの間にか彼の顔には、ほほ笑みが浮かんでいた。
“父さん、あの時、智絢を送って良かっただろ?”
まだ幼かった頃のように、少し甘えるような智敏の叫びが、空へ向かって飛んで行った。その心の叫びは声にはならなかったものの、本当に誇らしく、力強い渾身(こんしん)の叫びだった。
「ニューヨーク発の飛行機は、6時到着で間違いありませんよね?」
ひとしきり回想にふけっていた智敏は、どこか不安げな隣の人の声で、たちまち現実に引き戻された。
いつ集まったのか、かなりの数にのぼる人々が、発着案内板から目を離さないまま、ざわめき合っていた。智敏の視線が案内板に注がれた。
先ほどから張り出されていた「遅延」という言葉は、いまだに変わらなかった。智敏は急いで腕時計に目をやった。
午前6時40分。
長い航路だから、気流によっては1時間くらい遅れることがあるとの声が横から聞こえたが、智敏は不意に焦燥感に駆られた。
「どうして遅延してるんですか?」
智敏の追及するような言葉に、横にいた50代の出迎え客は、黙って首を横に振った。彼はこういうことはよくあるというように、余裕を感じさせる愚痴をこぼしただけだった。
「全く、さっさと出せってんだ」
「何を出すんですか?」
「乗客だよ。しかし、確かにおかしいな。ニューヨークから来るのは最初の飛行機だから、めったに遅れることはないんだが」
豊富な経験から来るこの一言は、空港が生まれて初めての智敏をにわかに動揺させた。
今まで生きる中で常に感じてきた不幸の遺伝子が、全身を這(は)い始めるような感覚に、智敏はびくっと体を震わせた。
間違いなく、これは不吉な前兆だった。
どんなに希望に思える出来事が起こっても、結局は不幸で締めくくられてきた自分の運命に宿る、もううんざりの、ぞっとするような凶兆だった。
「何かあったんじゃないですか?」
努めて平静を装おうとしても、否応なく声が震えてしまうのを自覚しながら、智敏は経験豊かなこの男に向かって、自分を安心させてくれる一言を求めるように尋ねた。
「1時間までなら遅れることもあるが、1時間を超えると、単純な遅延じゃないこともある。そもそも飛行機が飛ばなかったとか、途中で引き返したとか、多少トラブルになっている可能性もあるさ。しかし……」
「え? 何ですか?」
「なぜかアナウンスがないのが、嫌な感じなんだがね……」
「おじさんもニューヨークから来る飛行機……」
智敏が言い終わらないうちに、その男は首を振りながら悪態をついた。
「あいつら、遅れるならアナウンスをしろってんだ。逆風が強くて飛行機がスピードを出せずにいるだとか、滑走路が混雑しているだとか、霧が濃くて上空をぐるぐる回っているだとか」
「いや、霧もないし、早朝だから滑走路が混んでいるはずもないでしょう?」
「そうだな、実におかしい。いずれにせよ、アナウンスはすべきだろう」
既にゲートの前でざわめきが起こっていた。
問題は、この男が言ったように、アナウンスが全くないことだった。
最初は、朝早いからだと寛容な態度を示していた出迎え客たちだったが、飛行機があまりにも遅いので、今や誰もが不平と不安の入り混じった愚痴をこぼし、悪態をついていた。
大韓航空よりお知らせいたします。
ようやく、女性アナウンサーの声がスピーカーを通して流れてきた。出迎え客はみな、水を打ったように静まり返った。
ニューヨークを出発したKAL007便は、現在、金浦(キムポ)空港への到着が遅れております。お迎えのお客様は、今しばらくお待ちくださるようお願いいたします。
「くそったれめ!」
最初は、飛行機とはいつも遅れるものだと余裕風を吹かせていた50代の男の口から、穏やかでない言葉が飛び出した。航空事情をよく知っている分、彼は誰よりも大きな不安を感じているようだった。
「遅れてることを知らない奴(やつ)がどこにいる! 理由を言えというんだ。アメリカならアメリカ、アラスカならアラスカ、日本なら日本、そうやって地域別に区切って、風なら風、ダイバート(目的地外着陸)ならダイバート、こういうふうに、遅れる理由を具体的に言うべきだろう。あんなアナウンスに何の意味があるんだ!」
普通ではあり得ないほどの遅延に、当初はどんな判断をすべきか分からず、沈黙していた出迎え客たちは、男の激しい反応と的を射た非難を目の当たりにして、大きくざわつき始めた。
何よりも彼らは、アナウンスの言葉から遅延の理由がすっぽり抜け落ちていることに、困惑と怒りを感じた。
「どうして遅れているんだ! どうして!」
誰かが壁の一方に高く取りつけられたスピーカーに向かって、質問なのか抗議なのか分からない言葉を投げかけた。
智敏は恐る恐る、傍らの男に尋ねた。
「何か思い当たることがありますか?」
それまで荒れていた男は、ようやく興奮し始めたほかの出迎え客とは違って、むしろ非常に落ち着いていた。
いや、落ち着いているというよりも、多少恐怖に駆られた表情で何かを考えていたが、まるで自分に言い聞かせるように、不安と緊張に満ちた言葉を智敏に告げた。
「風じゃない」
「……」
「ダイバートでもない」
「……」
「風だろうとダイバートだろうと、飛行機は必ず管制センターと連絡を取ることになっている。管制センターが許可しない限り、前にも後ろにも行けないんだ」
飛行機のことを全く知らない智敏であったが、男の話には説得力があった。
空を飛んでいる飛行機は何をするにしても、必ず管制センターの指示に従って動かなければならないのだ。それは今まで見てきた映画やドラマなどでも、十分に確認できる事実だった。
「それなら?」
智敏の声が、知らず知らずのうちに震え出した。
「最も楽観的に考えるなら」
口数が多いその男は、言葉を切って唾をごくりと呑(の)み込み、力を込めて続けた。
「風が強い上に、乱気流を避けるため、迂回(うかい)しているとか……。まあ、そんなふうにいろんなことが全部重なっているのかもしれないが……。いや、それなら、そうと教えてくれるはずだ」
「……」
「悲観的に、いや、普通に考えるなら……」
「……普通に考えるなら?」
その男もまた、誰かを迎えに来ている身なのか、慎重に言葉を選んでいるような気配がうかがえたが、ついに感情を抑えつけて、胸の中の一言を吐き出した。
「事故だってことだ!」
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次回(4月13日)は、「失踪した飛行機」をお届けします。