2021.03.31 17:00
家族の絆づくり 161
神中心と自己中心の大きな違い
ナビゲーター:阿部 美樹
「悔い改め」なのか、「反省」なのか
向上心を持つ人は、神の愛に応えられなかった、神の愛に気付けなかったという「悔い改め」の心を持って成長しようとします。
悔い改めた分だけ復活し、神の似姿に近づいていきます。しかし、神中心の視点からずれると、自己を改める悔い改めではなく、単なる「反省」になります。
反省とは、何が問題だったのか、何が課題なのか、誰が問題だったのかを分析することです。そうなると、自分以外に問題を発見する傾向があり、現実的な改善のみになりかねません。
「自己否定」「自己犠牲」は不幸な姿?
信仰生活の大切な姿勢として自己否定と自己犠牲があります。
自己否定とは、無私の心情になることです。我欲を捨てて幼な子のような純粋な心を持つことこそ、神の喜ばれる姿です。
真の愛とは、「与えて忘れること」であり、「怨讐を怨讐として考えず、むしろその人のために祈り、許すこと」であると言いますが、それは自分がない生活をしてこそ可能なことです。
しかし自己否定は、ややもすると、本来の目的とは違って自己卑下したり、自虐的な自責の念で苦しんだり、自尊感情が乏しくなったりすることがあります。
神中心の動機を持った自己否定でなければ、神の願いからずれていくものです。
また、自己犠牲とは「他のために生きる」「他のために仕える」ことです。
為に生きる時には必ず犠牲が伴います。プレゼントするという行為一つを分析しても、金銭の負担、買い物に行く時間と身体的負担、気遣いをする心の負担など、さまざまな負担という犠牲が伴います。
「犠牲」という字を見ると、どちらも「牛編」です。
牛とは長い歴史を通して「神や祖霊にささげる供え物」であるともいわれます。そして、牛偏を取ると「義に生きる」という字になります。
犠牲こそ、「神にささげる義に生きる姿」なのかもしれません。しかし自己中心の動機で見ると捉え方が変化します。
一般的にも「犠牲者」と言えば「被害者」「被災者」「困難者」と扱います。
自ら進んで犠牲になる人は「奉仕者」「愛の実践者」ですが、自己中心な動機の犠牲は、「不幸な姿」になりかねないものです。