2021.03.09 22:00
預言 3
オシポーヴィチ
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
1983年9月1日、大韓航空機007便がソ連の戦闘機によって撃墜された。その事件で妹を失った崔智敏は、ソ連への復讐に燃えて立ち上がる。アメリカに渡り、ソ連に入る機会をうかがう智敏。しかし、スパイ容疑で逮捕され、ダンベリー刑務所に入れられてしまう。そこで出会ったもう一人の韓国人。彼はソ連の絶頂期にあって、驚くべき宣言をした。韓国、アメリカ、南米、ヨーロッパ、ソ連……。世界を巡りながら、智敏が目にした歴史の真実とは?
本書は韓国のベストセラー作家である金辰明氏が、真の父母様が立てられた世界的功績に感銘を受け、執筆した小説の日本語翻訳版です。
金辰明・著
3 オシポーヴィチ
「アレック!」
机の前に座ったオシポーヴィチは、上着のポケットから取り出した写真の中の男の子を見つめ、柔らかなほほ笑みを浮かべた。
八重歯を見せて天真爛漫(らんまん)に笑う幼子は、オシポーヴィチが世界で一番大切にし、愛している息子だった。
彼はズボンのポケットに手を突っ込み、中に入っているチョコバーを確認した。
非常待機室のチョコバーを家に持ち帰ることは禁止されていたが、もみじのような小さい手を差し出してチョコバーを受け取る、愛する息子のうれしげな表情に比べれば、それくらいの規則違反など何でもなかった。
「アレック、この悪いパパがお前の白い歯をぼろぼろにしてしまわないか心配だよ……」
指で写真の愛らしい息子の虫歯をなでていたオシポーヴィチは、突然の耳をつんざくスピーカーの破裂音に動きを止めた。
「非常待機者、出撃!」
非常待機者とは、すなわち自分のことだった。
彼は急いで写真を上着のポケットに入れ、机の上のヘルメットを取り上げた。
「オシポーヴィチ、出撃!」
今やスピーカーは、自分を名指ししていた。
スピーカーから流れてくる司令室の催促はいつもと変わらなかったが、彼は今日に限って、なぜか不吉な予感がした。
至福の時を邪魔されたという思いが加わったせいかもしれないが、普段とは違って、胸の深くから陰惨な感情が湧き上がってきた。
そして、その感情は身の毛のよだつような緊張感へと広がっていき、彼をからめとった。
「オシポーヴィチ、出撃!」
繰り返されるスピーカーの音声は、オシポーヴィチが滑走路の端に面した非常待機室のドアを蹴飛ばし、バネのように飛び出して行くことを求めていた。
優秀パイロットの表彰を何度も受けたオシポーヴィチ少佐は、軍靴の音を騒々しく響かせながら、暗闇の中、滑走路をひた走り、自分を待つスホーイ15の操縦席に飛び込んだ。
「離陸準備完了」
司令室の仰々しいスピーカー音とは違い、ベテラン操縦士の落ち着いた声が暗闇に広がった。
「今すぐ出撃だ。任務は離陸後に指示する」
「ハラショー!」
オシポーヴィチは異様な予感を抑えつけるように、決然とした返事をし、スホーイ15の操縦桿(かん)を力いっぱい手前に引いた。
「作戦命令を伝達する」
空に飛び立ったオシポーヴィチは、司令室の作戦命令を聞く前から、いつもどおり機首を右に向けていた。
任務は十中八九、いや、100パーセント、領空を侵犯したアメリカの偵察機に対応しろという内容だろう。いつもそうであるように、自分は偵察機の影を見ることもないまま、基地に帰還することになるはずだ。
これは昨日今日の話ではなかった。
米軍の偵察機はこれまで10年以上、しつこく公海と領空の境をぎりぎりのところで飛行し、時折領空を侵犯しては、こちらの戦闘機が飛ぶとすぐに公海上に身を避けるのだった。
米軍は一週間に少なくとも2、3回はこのような行為を繰り返し、そのたびに各基地で対応して迎え撃ってきたが、長い歳月とともに、もはや緊張感のないかくれんぼのようになってしまっていた。
「オシポーヴィチ少佐、敵機は北緯48・26度、東経147・58度を飛行中だ!」
習慣的に座標を入力しようとしたオシポーヴィチは、電波に乗って聞こえてきた数字が、どこかなじみのないものであることに気づいてはっとした。
「何だ、これは!」
いつもの、習慣的に入力していた数字ではなかった。
最初の呼び出しを耳にした時からおかしな予感に囚(とら)われていた彼は、瞬間的に身を引きしめた。
座標の示す位置は普段とは違い、領空の境界線をはるかに過ぎた地点であり、敵機がこのまま飛行を続ければ、すぐに「ブレジネフ特別区域」に到達すると思われた。
「ブレジネフ特別区域」に何があるのか、空軍基地のパイロットの中で、確かなことを知っている者は一人もいなかった。
あちこちから聞こえてくるうわさでは、300基以上の大陸間弾道ミサイルが、アメリカの各都市と軍事目標に照準を合わせて設置されているとのことだった。
オシポーヴィチはこの日、自分に与えられた任務がとても重要なものであることを悟り、座標を一つずつ慎重に入力した。
「ううむ」
レーダーに表示された数字を見て、おおよその位置を把握した彼の口元からは、重いうなり声が漏れた。
敵機は既に領空深くに入ってきており、もはや何の代償もなしに公海上に抜け出せる位置ではない。
それならば、これから自分は最大限の注意を傾けて基地からの指示内容を正確に把握し、ほんの少しのミスも犯すことなく、命令どおり履行しなければならない。
少しでもミスが発生した場合は、ルビャンカでの無慈悲な尋問とシベリア流刑を覚悟しなければならなかった。
「目標地点へ移動する」
オシポーヴィチは自分の戦闘機を内陸側に急旋回させてレバーを力いっぱい前に倒し、速度を上げた。
漆黒の闇の中を矢のごとく駆け抜けると、遠くにチカチカと瞬く航空機点滅灯の光が目に入った。彼の声が直ちに電波に乗り、基地へ飛んだ。
「敵機発見、肉眼で確認」
「機体の識別は可能か?」
「暗くて識別不可能。しかし機体は非常に大きい。コブラと思われる」
彼は目に飛び込んできた飛行機を見て、即座に米軍の巨大輸送機RC135を思い浮かべた。
米軍はRC135を改造し、コブラと呼ばれる偵察機として使用している。この事実を、オシポーヴィチをはじめとするソ連戦闘機のパイロットたちは、あまりにもよく知っていた。
それは、常に自分たちの迎撃対象だった。
「飛行速度は?」
「非常に速い。確かではないが、おそらく時速900キロ以上と思われる」
「待機せよ!」
オシポーヴィチは相手の飛行機と然(しか)るべき距離を維持しつつ、司令室から飛んで来る命令が何かを想像した。
いつもなら、近接飛行で自分の姿を見せ、敵の偵察機が機首を返して公海のほうへ抜けるように誘導せよ、という指示が下りる可能性が最も高かったが、敵機があまりにも深く入り込んでしまっているため、今日は異なる指示が下される可能性もあった。
司令室からの応答が遅くなるにつれ、オシポーヴィチは奥歯をぎゅっと噛(か)みしめた。
やはり自分の考えていたとおり、簡単な措置で追い出すには、既に敵機が領空の奥深くに入り込み過ぎているのだ。
彼はスホーイ15を上昇させ、高度を相手飛行機と水平にして、敵機の機尾にある点滅灯の光を利用しながら、コブラと輪郭が合うか比較しようとした。
しかしその努力は、光がかなり弱々しかったため、徒労に終わった。
彼は約2キロの距離を維持しつつ、無線機に向かって声を発した。
「敵機と水平飛行中。敵機は航法灯と衝突防止灯を点滅させている」
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次回(3月16日)は、「モスクワの声」をお届けします。