2025.01.24 12:00
誤解されたイエスの福音 15
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。
野村健二・著
第二章 イエスの本来の使命
二、摂理変更の根本原因となった洗礼ヨハネの変節
洗礼ヨハネ変節の理由
さてここで問題なのは、ヨハネがどうしてイエスがメシヤであるという『聖霊の啓示』(ヨハネ1・32)を疑うようになったかということです。
そのことについて文鮮明(ムン・ソンミョン)師は次のように説明されています。
「キリスト教では(マリヤが)『聖霊によって身ごもった』と言いますが、うそです」(『天聖経』「宇宙の根本」1724頁)。霊で女を身ごもらせることは科学的に見ても不可能で、男性の精子によってしか身ごもらせることはできないというのです。
では一体どのようにして身ごもったかといえば、マリヤが「エリサベツのところに……滞在して」いた「三か月」の期間(ルカ1・56)に、「エリサベツが、聖霊や天の指示によって、自分の夫と自分の妹(の立場のマリヤ)を関係させたのです」(『天聖経』「宇宙の根本」1727頁)。だから、「イエス様の父親は……ザカリヤです」(同361頁)と言われるのです。
神がなぜそんなことをされたかといえば、エバがサタンの影響のもとに「善悪を知る木の実」(女性の性器の比喩)を、神がそれだけは絶対「取って食べるな」と厳命されていたのに、アダムに取って食べさせた。それがすべての罪の根本である原罪なので、すべてを清算しなければならない終末期に当たっては、その「堕落の種を」受け継いで「もっている」マリヤの婚約者ヨセフの子をメシヤとすることはできず、長年祭司として聖別され、神がくじによって特別に選ばれた「天の側の天使長圏」にあるザカリヤの種を、償いの条件(蕩減条件)として、堕落とはちょうど反対の形を通して、マリヤに伝えるという手続きを取らなければならなかったのだ(『天聖経』「罪と蕩減復帰」1146〜1148頁)というのです。
この重大な秘密を多分エリサベツが漏(も)らしてしまったのでしょう。ヨハネもそのことを知ってしまっていました(『天聖経』「宇宙の根本」1725頁)。これは神の命令だとはいえ、律法では死罪に当たる行為にほかなりません。それでヨハネは、ヨルダン川でイエスを「神の子」と証しはしたものの、「よくよく考えてみると、『全く、神様が伝統的なメシヤを送るのに妾(不義)の子供を送るとは!』と思った」(同1725頁)。それでエリヤの役割を務めるのをやめてしまったというのです。
その後、前述のヘロデ王の不義の婚姻をとがめた洗礼ヨハネはどうなったかと言えば、神に反抗するサタンの惑わしによって、ヘロデ王の誕生日に、妻ヘロデヤの娘が舞をして見せたのを王が褒(ほ)め、「欲しいものはなんでもやろう」と言ったのを、ヘロデヤが絶好のチャンスだと見て、娘に「ヨハネの首」が欲しいと言わせます。ヘロデ王はそれを拒否できなくなって、ヨハネは獄中で首を切られ、その首が盆に載せて運ばれるという惨めな最期を迎えるのです(マタイ14・1〜11、マルコ6・17〜28)。
このようにヨハネは初めは「ユダヤ全土」の人々(マルコ1・5)に、「もしかしたらこの人がそれ(メシヤ)ではなかろうか」と考えさせるほどの信望を集めていたので(ルカ3・15)、ただひとこと自分が「エリヤ」だと断言しさえすれば、イエスが「ダビデの王座」(ルカ1・32)に就くことは造作のないことだったのに、ヨハネがそれを否定したため、信頼されていただけに強い影響をもたらし、イエスはついに十字架を経て、復活、再臨という、神が万一の最悪の場合に備えて準備された「第二次の摂理」を選ばざるをえなくなりました。これが、シュヴァイツァーの首をかしげさせたイエスの突然の方針変更の理由だというのが、統一思想の解答です。
(これは、神の摂理は永遠・絶対・唯一だと見るカルヴァンの予定論の捉え方とは根本的に対立するものです。すなわち、統一思想は人間を第二の神の実体とするために人間には完全な選択の自由が与えられており、神はいわば摂理の95パーセントを決定され、5パーセントは人間の責任において自由に決定するがままに任せる。それゆえ、神の願いどおりに事が運ぶことを前提とする第一次摂理だけではなく、願いのとおりに人間が行動しない最悪の場合に備えて第二次摂理をも用意される。十字架→復活→再臨は、この第二次摂理だというのです──『原理講論』243〜247頁、予定論参照)。
したがって、“パウロの根本的誤り”は、人間が神の予定どおりに行動しない最悪の場合に備えておいた第二次摂理を、本来の神の願いである第一次摂理と信じているところにあるといえます。
なお、この方針変更はマタイによる福音書の順序どおりではなく、イエスが三弟子と共に「高い山に登られ」、モーセとエリヤに会われたとき(マタイ17・1〜8)に、この二人の了承のもとに最終決定がなされたと見るのが統一思想的な見方だと私は考えています。
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次回は、「イエスへの関心が薄かった両親、ヨセフとマリヤ」をお届けします。