日本人のこころ 29
奈良―聖徳太子(2)『斑鳩の白い道のうえに』上原和

(APTF『真の家庭』250号[2019年8月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

斑鳩のギリシャ悲劇
 聖徳太子を論じた本の中で一番感銘したのは、美術史家・上原和(かず)の『斑鳩(いかるが)の白い道のうえに』(講談社学術文庫)です。上原は本の表題を、原稿を執筆しながら訪れたギリシャのトロイア遺跡で思い浮かべたそうです。

 「ホメーロスの歌ったありし日の古戦場の綿畑のなかを一すじの白い道がどこまでも続き、かぎろいたつ彼方から戦いの喚声がこの耳にも聞こえてくるようであった。この眼にはヘクトールやアキレスなどの精悍な古代英雄の相貌(かお)がありありと見えてくるおもいであった。私はいつしか、飛鳥や斑鳩の白い道のうえを疾駆する若き日の聖徳太子の姿を、二重写しのように重ねていたのである」(「学術文庫」版まえがき)

 上原の50歳を過ぎての同書を、梅原猛は「青春の書であると私は思う」と「解説」に書いています。上原は梅原より1歳上で、青年時代に戦争を体験しています。予備学生として海軍航空隊に自発的に入隊した上原は、国のために殉じるという亀井勝一郎ら日本ロマン派の影響を強く受けていました。亀井は共産主義からの転向者で、聖徳太子や親鸞に傾倒し、日本主義に回帰した文芸評論家で、私も高校時代その著作を愛読していました。

 集団で生きる人間にとって、「個と全体」は普遍的な問題で、国づくりの基本でもあります。上原は自身の青年時代の葛藤を、古代日本の国家形成の中核にあった聖徳太子の生き方に重ねながら、同書を書いたのだと思います。

 余談をしますと、マルクス主義は宗教、特にキリスト教とよく似ていて、それが大きな吸引力になっています。それを信じると、世界や歴史のすべてが分かったような気になるのです。細かな検証には耳を貸さないので、その意味でも科学ではなく宗教です。

 私も一時、マルクス主義に引かれましたが、深入りしなかったのは、人間理解の浅さに気づいたからです。親鸞や亀井の描く人間より、はるかに単純な経済人が対象なので、ついていけないと思いました。同じセクトに入った級友2人が分裂し、内ゲバで大けがをしたり、尊敬の念で見ていた先輩の活動家が女性問題を起こしたりしたことも一因です。

 上原が描いた聖徳太子は、従来の聖人君子ではなく、ギリシャの英雄のような戦う人であり政治家です。太子が作ったとされる「十七条憲法」の冒頭にある「和を以て貴しとなす」は、誰とでも仲よくすることと簡単に解釈されがちですが、その背景には太子が15歳で手を血に染めた蘇我氏と物部氏の戦いがあり、蘇我馬子の命を受けた東漢駒(やまとのあやのこま)による崇峻(すしゅん)天皇の暗殺事件があります。上原は自身の戦争の記憶を、血塗られた古代史に重ねていたのでしょう。つまり、「和を以て」の言葉は、そんな歴史からの脱却を訴える太子の叫び声だったのです。

 そして仏教を学ぶようになった太子は、その教えに一筋の光明を見いだします。人々が対立を超え、和して暮らす世の中への道です。その思想を込めたのが法隆寺の国宝玉虫厨子(たまむしのずし)だと思った上原は、玉虫厨子研究をライフワークにし、そこに描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」を太子の到達点だとしたのです。

 インドの王子が飢えた虎の母子に自らの肉体を布施するという説話で、『金光明経』に収められています。日本に伝来した仏教は釈迦から約500年後、紀元の初めからまた約500年かけて作られた大乗仏教で、初期の仏教(上座部仏教)が自身の悟りを優先したのに対して、他者の救い(菩薩道)を優先する教えです。つまり利他行で、虎にわが身を与えるのはその究極の実践でしょう。単に仲良くするという意味ではなく、人々が報いを求めない自己犠牲の生き方をするようにならなければ、と太子は考えたのです。

 その太子の思想が純粋に悲劇的に現れたのが、太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族の集団自決です。

 皇位継承をめぐり、蘇我入鹿に攻められた斑鳩の家の山背大兄王は、ゆかりのある秦氏に援軍を求め、一戦を交えようという臣下の進言に対し、「もし兵を挙げたならば、あるいは勝つこともあるかもしれないが、それによって無辜(むこ)の民に苦しみを与えることになる。それで私は逆賊どもにこの身を与えることにする」と言って、滅亡の道を選んだのです。まさに斑鳩が舞台のギリシャ悲劇です。

▲上原和・著『斑鳩の白い道のうえに』(講談社学術文庫)

朝護孫子寺の聖徳太子騎馬像
 大阪と奈良の境にある生駒山の南端に、聖徳太子ゆかりの信貴山(しぎさん)真言宗朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)があります。寺伝によると、蘇我・物部の戦いに出陣した少年太子がこの山で戦勝の祈願をすると、天空に毘沙門天が出現し、必勝の秘法を授けました。その日は寅年、寅日、寅の刻。勝利した太子は自ら毘沙門天の像を刻み伽藍を創建し、信じ貴ぶべき山として「信貴山」と名付けたそうです。同寺には巨大な虎の張子「世界一福寅」があり、特に寅年には初詣などで賑わいます。

 平安時代に、発病した醍醐天皇のため、勅命により命蓮(みょうれん)上人が毘沙門天に病気平癒の祈願をしたところ、天皇はたちまち回復。これにより天皇の安穏(あんのん)・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜りました。

 同寺の境内にあったのが白い少年太子の騎馬像で、初めてこの像を見て思い出したのが『斑鳩の白い道のうえに』の聖徳太子です。青年期には誰しもいろいろな葛藤を抱えています。平和な時代においてもそれは変わりません。それに真摯に向き合いながら人生を歩むことで、自分なりの人格を形成することができるのだと思います。