2020.11.19 17:00
歴史と世界の中の日本人
第17回 フレッド・和田
東京オリンピックを実現させた“日本人”
もう一度皆さまにぜひ読んでいただきたい、編集部イチオシ!なコンテンツをご紹介。
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アジアで最初のオリンピックが東京で開催されたのは1964年10月のことだった。
敗戦国、日本。焦土と化した東京が五輪開催地に決定したのは1959年。戦後、わずかに14年後の出来事であった。
国際五輪委員による開催地投票結果は東京34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票。東京の圧倒的勝利であった。このような快挙がいかにしてなされたのか。
そこには一人の日系二世の姿があった。フレッド・和田(和田勇、1907~2001)である。
和田は和歌山県出身の貧しい出稼ぎ移民の子として米国ワシントン州ベリングハムで生まれた。
生活苦などのため、四歳から和歌山県の祖父母の家に預けられ、5年後に米国に戻っている。
苦労の多い人生だったが、一代で青果商として成功し、30代前半の若さで日系食料品店の協同組合の理事長に就任した。
1949年、日本水泳連盟は戦後初の海外遠征で全米水泳選手権に参加したが、選手たちの滞在中の宿舎の問題があった。
それを全て引き受けたのが、開催地ロサンゼルス在住のフレッド・和田であった。
和田は家族ぐるみで献身的に日本の選手団をサポートした。
日本チームは大健闘し、九つの世界新記録を樹立し、団体戦でも圧倒的な強さで優勝。日本勢の快挙に日本中が沸きたった。
1958年10月、和田に一通の手紙が届く。東京オリンピック準備委員会委員長、岸信介首相からの親書だった。
和田は在米日系米国人としてただ一人、「東京オリンピック準備誘致委員会委員」に選ばれ、日本政府の依頼によって中南米諸国の国際オリンピック委員を訪問し、「東京開催」への協力を要請した。
和田夫妻が訪ねた場所は10カ国11カ都市、全て自費であった。
東京オリンピック開催への思いについて和田はこう語っている。
「日本、東京でオリンピックを開けば、日本は大きくジャンプできる。日本人に勇気と自信を持たせることができる。僕はそのことが、僕に与えられた使命、責務だと思う」
「僕は褒められたくてやったのではない。日本人が好きなんだ。日本人は優秀な民族。その日本人のために何か、お役に立ちたいと思っただけ」
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次回(11月26日)は、「国境と異文化を超えた挑戦者」をお届けします。