2020.11.19 22:00
氏族伝道の心理学 27
濃くて良い人間関係をつくる
光言社書籍シリーズで好評だった『氏族伝道の心理学』をお届けします。
臨床心理士の大知勇治氏が、心理学の観点から氏族伝道を解き明かします。
大知 勇治・著
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
濃くて良い人間関係をつくる
現代社会では、人間関係がどんどん薄くなっています。他人と少しでも良い関係をつくろうとして、関係を薄くしてしまっているのです。その結果、近所との関係が薄くなり、親戚関係も薄くなり、さらには親子や兄弟、夫婦関係までも薄くなってきています。親子でも同居しない家庭が増えています。親は「子供の世話にはならない」と言って、施設に自ら入ったりします。一緒に住んでも二世帯住宅です。夫婦の間も同じです。「亭主元気で留守がいい」というのは、薄くて良い夫婦関係を象徴する言葉です。挙句の果てに、父母がけんかして一緒に暮らすより、子供のためには、別れて良い関係でいたほうがいいと言って離婚してしまうのです。
こうした考え方は、日本のみならず先進国全体に見られるものですし、韓国にもそうした考え方が広まりつつあるように感じられます。
しかし、こうした考え方に大きな問題があります。毒も薄くすれば毒ではなくなりますが、栄養も薄くすると栄養ではなくなってしまうのです。私たちの心は、人間関係によって育っていきます。つまり、人間関係が心の栄養素なのです。もちろん、人間関係は毒にもなります。ですから、私たちの心は人間関係により傷を受けることもあります。しかし、その心の傷を癒やしていくのも人間関係なのです。
そうした大切な人間関係が薄くなってきているので、毒も毒ではなくなりましたが、栄養も栄養でなくなってしまいました。このことが、私たちの心にとっては大きなダメージになります。
つまり、人間関係が薄くなることにより、心に必要な栄養も薄くなってしまい、心が栄養失調状態になってしまっているのです。心は身体と同じです。身体の栄養が足りなくなると、どうなるでしょうか。まず、元気がなくなります。そして、体が弱くなり、すぐに骨折などのけがもしやすくなるし、ちょっとしたことで病気にかかりやすくなります。また、けがや病気になったときの回復も悪くなります。心も同じように、栄養失調状態では、元気がなくなり、すぐに気持ちがポキッと折れてしまったり傷ついたりします。また、心の病気にかかりやすくなります。そして、心が傷ついたり病んだりしても、なかなか回復しなくなります。
現代の日本では、鬱病などの心の病気が増えています。それは、人間関係が薄くなり、心の栄養失調状態に陥っているためです。特に、身体と同様に、心の栄養を必要とする、育ち盛りの子供たちに、不登校をはじめとする様々な心の問題が深刻になっているのも、子供たちを取り巻く人間関係が薄くなっているからです。
本然の人間関係は、濃い関係と言うことができるでしょう。薄くて良い人間関係と濃くて悪い人間関係と、どちらがより本然に近いかと言えば、悪くても濃い人間関係のほうでしょう。良いか悪いかよりも、濃いか薄いかのほうがずっと問題になるのです。ですから、私たちは、濃い人間関係をつくっていかなくてはなりません。創造本然の関係は、もちろん濃くて良い関係です。
ですから、濃くて良い関係をつくっていかなくてはなりません。しかし、薄くて良い関係から、関係の良さを維持したままで濃い関係に変えていくことはできません。人間関係を濃くしようとすると、隠れていた関係の悪い面が出てきます。薄まっていた毒が濃くなって出てきたということです。毒が出てきたら、その毒を取り除きます。そして、また濃くしていきます。するとまた毒が出てきます。その毒をさらに取り除いて……。これを繰り返しながら、濃くて良い関係を築いていくのです。
これを図7に重ねていくと、図8のようなイメージになります。
しかし問題は、私たち日本人は薄い関係に慣れてしまっているので、濃い関係がイメージし難くなっていることです。どのような関係が濃い関係なのか、よくわからなくなってしまっています。また、良い関係を大切にしようとするあまり、無意識的に人間関係を薄くするように動いてしまいます。教会員やそれ以外の人たちの面接を通して、濃い関係をつくるということが、私たち日本人にとっては思いのほか難しいことだ、という印象をもっています。そうした私たちにとって、濃い人間関係とはどのようなものかということを学んでいけるのが、韓国の文化です。
最近は韓国も変わってきているとはいえ、韓国と日本の文化を比べたときの大きな違いの一つは、人間関係の濃さです。韓国人は薄い関係を嫌います。濃い関係の中で生まれ育ってきているので、薄い関係の中では、栄養失調になったように、あるいは砂漠の中で乾ききって身動きが取れなくなっているかのように元気がなくなってしまいます。私の妻もそうですが、日韓家庭の韓国人婦人は、多くの場合、日本人の人間関係の薄さの中で苦しんでいます。
一方、韓日家庭で韓国に嫁いで行った日本人婦人は、最初は韓国の人間関係の濃さがつらいようです。シオモニ(姑)がずかずかと自分たちの寝室に入ってきて勝手にタンスを開けているとか、留守している間に近所の親戚が家に上がり込んでくつろいでいたとか、プライバシーがないことにつらさを感じます。これは、日韓家庭の韓国人婦人とは逆に、情の中でアップアップと溺れて苦しくなっているようなイメージです。しかし、韓日家庭の日本人婦人は、韓国の人間関係の濃さに慣れると、その心地良さから抜けられなくなると言います。忘れていた本然の人間関係を取り戻すことができたのでしょう。
それに比べると、日韓家庭の韓国人婦人は、日本人の人間関係の薄さに慣れることはないようです。諦めることはあるのでしょうが、やはり息苦しさはいつまでも続くようです。ですから、日本社会の中で韓国人婦人同士が固まって、日本人の悪口を言うようになってしまいます。
話がずれてしまいましたが、親子関係や兄弟関係、氏族関係を考えていく時も、同じことが言えます。大切なことは、私たちの親子関係や兄弟関係、氏族関係がそれくらい濃い関係になっているか、ということです。私たちは、教会に来ることにより、親子関係や兄弟関係、氏族関係が薄くなってしまっていることが多いように思います。
もちろん、み言を聞くことによって私たちの心情が変わったことにより、親子関係が良くなったということもあるでしょうけれど、その一方では、入教生活をし、み旨を中心とした生活をする中で、親・兄弟・氏族と接する機会が少なくなったために、関係が改善したと感じていることもあるのではないでしょうか。
先に述べたように、本然の関係は、濃くて良い関係です。私たちが目指すところは、親・兄弟・親戚と一つ屋根の下で暮らして、それでも不安と怒りのない、愛の関係をつくることです。お父様が「三代で暮らしなさい」とおっしゃる理由は、先に挙げた親に侍ることによる四大心情圏の完成ということとともに、堕落性を脱いで創造本性の関係をつくるためにも必要なことだと感じています。遠くに住んでいると優しい気持ちになれるし、穏やかな気持ちで電話をしたり、物を送ったりできます。しかし、一緒に暮らすと、いろいろな思いが出てくるものです。
私自身のことについてお話しします。
私は一人っ子で、かわいがられて育てられました。父は大学教授で、母は専業主婦で料理の先生でした。何不自由なく育てられましたし、両親が感情的になって私を怒ったことはほとんどありませんでした。もちろん両親が私をたたいたことも、記憶にありません。
私は、大学院に入るために親元を離れ、長い間両親と離れて暮らしていました。み言を知っているということもありますが、遠く離れて暮らしていると、両親に対する怒りが湧いてくることは全くありませんでしたし、親孝行ができていないことも本当に申し訳なく思っていました。
それが、ある時から一緒に暮らすようになりました。すると、父親や母親のちょっとした言動にイライラしている自分がいることを感じるようになったのです。ほんの些細(ささい)なこと、親にとっては何気ない言動、場合によっては、私のことを思って言ってくれている一言が、私の心をイライラさせるのです。こうした自分自身を見ながら、改めて完成への道のりが遠い自分自身であることを感じさせられています。
今、私自身、両親との関係を一つずつ整理しながら歩んでいるところです。早く先に紹介したお父様の平和のメッセージの中にあるような、無上の喜びを感じることのできる孝行息子になりたいと思って、日々の生活をしています。ただ、その基準ははるか彼方ですが……。
こうした私の体験からも、堕落性を脱いで本然の関係を回復していくためには、親子が一緒に暮らすことが不可欠だと言い切れます。離れていては、心の奥底にある歴史的な堕落性を掘り起こしていくことができないからです。お父様が三代で暮らしなさい、というメッセージの意味の一つには、三代で暮らす中で親子の間に創造本然の情関係を結べたときに、その血統の歴史的な問題が解決し、本当の意味で完成していけるということがあるのだろうと考えています。
創造本然の親子関係とは、どのようなものなのでしょうか。
お父様の平和のメッセージの中には、真の愛の人生について、次のような一文があります。
「(真の愛とは)与えても、与えたという事実すら記憶せず、絶えず与える愛です。母親が子女を胸に抱いてお乳を飲ませる喜びと愛の心情です。子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的愛です」。
私は、初めてこの文章を見たとき、びっくりしました。親に孝行をして感じる喜びとは、母親が子供を抱いてお乳を飲ませる喜びと同じレベルで感じられる喜びだということを初めて知ったからです。私は男性なので、子供を抱いてお乳を飲ませる喜びというのを実際に体験したことはありませんが、それが無上の喜びであろうことは、想像に難くありません。親孝行の喜びとは、それに勝るとも劣らないものであったとは……。
私の親に対する情が、いかに本然の基準からかけ離れているかということを実感させられた瞬間でした。私たちは、そうした情を復帰していかなければならないのです。そのために、親に侍り、氏族に侍り、氏族的メシヤを完成していくのです。そして、それが結果として、私の心の問題の解決となり、夫婦の問題、子供の問題の解決につながるのです。
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次回は、「『侍ること』と『心情文化』」をお届けします。