歴史と世界の中の日本人
11回 朝河貫一
真の国際人として生きた「最後のサムライ」

(YFWP『NEW YOUTH』165号[2014年3月号]より)

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 米国で初の日本人大学教授となった朝河貫一(1873~1948)は、封建制度に関する比較史の道を開いた世界的な歴史学者であり、日米間の戦争をくい止めるために東奔西走した国際政治学者である。

▲朝河貫一(ウィキペディアより)

 朝河の告別式でイェール大学院副院長のハートレイ・シンプソン教授は、朝河貫一を「終生日本国民とアメリカ国民との善意をつないだ誠実な大使であった」と述べ、「人々は将来にわたって、彼の生涯を感動と尊敬をもって記憶するであろう」と語った。

 その言葉を証明するように、朝河がイェール大学の講師となってから百周年となる2007年には、同大学の構内にそれを記念する「朝河平和公園」が造られることになり、同年3月には、同大学で朝河の国際政治学者としての業績を再評価するシンポジウム「日本と世界」が開催された。

 朝河貫一は福島県二本松市に生まれた。
 貫一は幼少期から「神童」「朝河天神」と呼ばれるほど優秀であった。

 安積(あさか)中学校、東京専門学校(現早稲田大学)を首席で卒業し、留学したダートマス大学卒業に際しては最優秀者に授けられる「ファイ・ベータ・カッパ賞」を受賞している。

 ダートマス大学卒業後はイェール大学大学院の歴史科に入学。卒業後はダートマス大学の講師を、1907年からはイェール大学講師を務めた。
 1905年には米国人女性、ミリアム·J.C.ディングウォールと結婚。
 米国で初の日本人大学教授に昇進したのは1937年のことであった。

 朝河は、日本と西洋の比較封建制の研究を通して、「世界史にはそれを貫く道義がある」と悟ったという。
 朝河の研究の目的は、「人類史とその運命の真相に対して組織的な貢献をなそうとすること」だったと自身が述べている。このような態度は、キリスト者としての朝河の願いでもあった。

 東洋と西洋の比較において両者の歴史を論じた朝河貫一の業績は大きい。
 それはそのまま、歴史学者として、国際政治学者として東西の懸け橋となって新しい未来を開こうとした「最後のサムライ」の姿でもあった。

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 次回(10月15日)は、「不可能を可能にした日本人」をお届けします。